2011年12月1日木曜日

■行ってみよっと:河内長野・観心寺 楠公さんに支えられ /大阪


行ってみよっと:河内長野・観心寺 楠公さんに支えられ /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111201ddlk27040392000c.html
2011年12月1日 地方版 毎日新聞 

 ◇歴史と自然に胸を張る

 冬景色を味わいに観心寺(河内長野市)へ。南海河内長野駅からバスに乗り込むと、平日なのに満員。リュック姿の中高年登山者たちだ。「金剛山はどのルートで行きはるん?」「岩湧山のススキは今やね」。車内は山の情報交換でにぎやか。

 河内長野市は府内で3番目に広い市(1番目は大阪市、2番目は堺市)で、7割は山間部だ。

 約10分乗って「観心寺」で下車。「ここは自然がいっぱいなんですよ」と「かわちながの観光ボランティアガイド倶楽部」の林修さん(75)。「桜の時期はあちこちが“桜公園”。紅葉をどこかに見に行くなんて必要ないんです。桜と紅葉の季節には、よくぞ河内長野に住んでいたと思いますよ」と胸を張る林さん。ちょっとうらやましい。

 観心寺は701年に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた。約100年後、弘法大師が立ち寄り、北斗七星に拝んだところ、七つの星が空から降りてきたとか。星が降りてきた七つの地点は現在、星塚としてまつられている。また、弘法大師が作られたご本尊、如意輪(にょいりん)観音像は国宝。南北朝時代の南朝側武将・楠木正成ゆかりの寺でもある。正成は千早赤阪村出身で幼少期、この寺で修行し、首塚が境内に残る。

 金堂に上がる。林さんが静かに正座した。隣にご一緒する。顔を上げると、目の前に「拝み方」の張り紙があった。<おちつかないと気持ちは通じません>。ドキッ。<腹式呼吸がゆっくり出来ると、おちつきます>。日常もこれだ! 唱える言葉は<オンバラダ ハンドメイウン>。7遍でも108遍でも1000遍でもよいとあったので、7回で失礼した。

 重要文化財の建掛塔(たてかけのとう)は“平屋建て”。正成は三重塔を建立しようとしたが、湊川の戦い(1336)で足利尊氏に敗れて討ち死にしたため、未完に終わったのだ。頑丈そうな構えは、もっと上に積み上げるためだったのか。屋根の上の空がぽっかり大きく見えた。

 「あそこに並んでいるヒノキ、1本だけ幹が赤いでしょ。1、2年前にむいたばかりだからね」と林さん。日焼けした肌みたいにテカテカしたピンク系。「そのときにむいた檜皮(ひわだ)がこれです」と寺務長の永島弘教さんが見せてくれた。束ねられた檜皮は、薄くてパリパリしてミルフィーユふう。

境内で取った檜皮は、この寺の屋根の修復に使うという地産地消型。

 梅の木は250本ほどある。200~300年の古木だが、枝の先に小さな芽をちょんとのぞかせて、まだまだお達者だ。

 ボタンの木も並んで植わっている。春が楽しみですね? 「土が荒れているでしょ。イノシシが根っこをかじってね」と弱り顔の永島さん。お寺を困らせるとは北朝の残党か!?

 河内長野駅近くの長野神社にも寄った。駅から同倶楽部の永井宏史さん(76)が案内してくれた。ひっそりとした境内に、樹齢200年というイチョウ、府指定天然記念物のカヤノキがぐーんとそびえる。どちらも20メートルほどあるだろうか。てっぺんは見えない。クロガネモチ、ヤマモモ、タラヨウ……。永井さんが一本一本紹介してくれた。「いろんな木があるんです。たくさんの方に知っていただきたいです」。わが町のために皆、一生懸命だ。

 最後はおみやげ。明治38年創業の和菓子屋「友井堂」に入る。社長の荒谷仁さん(78)のイチオシは「楠の里」。もちろん楠木正成の里という意味だ。ぎゅうひの中に白あんが入って、ほんのりユズの香り。楠木家の家紋・菊水をかたどったもなか「菊水」も作っている。「まだまだ楠公(なんこう)さんの菓子を作るという夢がありますねん」。楠公さん、聞いてはりますか。

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 かわちながの観光ボランティアガイド倶楽部の問い合わせは河内長野市商工観光課(電話0721・53・1111)▽友井堂=本町29の22、電話0721・52・2367。支店が南海・河内長野駅改札前にある。


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