2012年3月1日木曜日

■中国で改めて注目される“隠士”―誰もいない浄土に行きたがる



中国で改めて注目される“隠士”―誰もいない浄土に行きたがる
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0229&f=national_0229_198.shtml
2012/02/29(水) 18:11
 
 1989年、Bill Porter氏が北京、山西などを歴訪した後、西安市市街地以南の終南山に隠士隠居の伝統があることを知り、そこを尋ねて行き、5000名の隠士がいることを発見した。最年長者は90歳を過ぎていて、中には何十年間もずっと山に隠居し、死ぬまで下山しなかった隠士もいるという。その経験を基にBill Porter氏は『空谷幽蘭』という本を書いた。

 『空谷幽蘭』はいわば中国の秘境を探検した記録である。中国の隠逸の文化伝統及びその発生や発展の歴史を明かにし、彼が取材、探訪した現状と照らし合わせ、中国の伝統文化に対する高度な賞賛と憧れを表したものである。

 『空谷幽蘭』の出版により、西安の人々は車で一時間くらいのこの終南山に隠居の伝統のあることを知った。その終南山には全国各地から来た修行者が山の谷間に隠居し、千年前と同じ生活をしている。

 三年前から、35歳の西安市住民張剣峰氏は頻繁に秦嶺山脈に出入りし、華山から終南山、宝鶏龍門洞まで、400キロにわたり谷間を一つ一つ捜し歩いた。目的はただ一つ、そこに隠居する修行者を見つけることだ。今日まで彼は600名あまりの隠士を尋ね、自らも恋愛関連の青春文学編集者から半可な隠士となり、『問道』という雑誌まで発刊している。『問道』は中国人の国学入門の読み物と位置付けられ、中国一の秘境を探訪して隠士・智者と対話し、これら隠士・智者の悟りを中国人に伝えようとするものである。

 『問道』雑誌の誕生とメディアの報道により、多くの人が隠士に好奇心を持つようになった。しかし、隠居生活はそれほど楽なものではなく、ある隠士の話では、山で生活するには多くの困難を克服しなければならないという。

 まず、自分が住めるかやぶき小屋を見つけなければならないが、現地の村民から家を借りる場合が多い。自分でかやぶき小屋を建てる場合もあるが、それも現地の村民と土地借用等についての交渉をしなければならない。洞窟に住むことはもちろんできるが、大抵は湿っていて住めるような環境ではない。飲用水の確保、耕作、柴刈りといった問題も考えなければならず、中には水を運ぶのに二時間の山道を歩かなければならないという人もいる。

 最大の障害はやはり精神的なもので、多くの人が隠士になろうと決意して山に入っていくが、何日かで下山してしまう。山の中では交流する相手が全くなく、孤独に耐えられず、精神状態が不安定になり、軽度の精神分裂を起こす人もいる。雑念があっての修行だから、寂しさを克服できず、精神的な問題を抱えてしまう。

 他に安全面の問題もある。隠居する場所は辺鄙なところが多く、その上独居なので、潜在的な危険も少なくない。ほんの少ない線香代のために、ある比丘尼が山の中の小寺で殺されたという噂もある。隠士と村民との間に互いに補い合うという微妙な関係もある。良い修行者は山の中のゴミを拾ったりして環境を守り、また、村民を教化する場合もある。隠士の存在により終南山へ観光に来る人が増え、駐車や民宿などで村民の収入も少しは増えている。

 現実生活以外に、隠士たちは多く場合は独居する。この独居について、Bill Porter氏は山の中の隠士は大学院生に似ており、かれらは精神的な悟りの「博士」を目指しているという。多くの人は仏経寺院や道教寺院、儒教書院、大学乃至家庭で精神的な悟りの「学士号」を取り、山に入って「博士号」を取ろうとしているというのだ。

 張剣峰氏の調査によると、山の中の静かな環境が修行者の静思には持って来いという。修行そのものはよりよく社会に進出するためのものである。終南山での修行はプロセスに過ぎず、ごく少数の人を除き、山中での修行が終わった後、多くの隠士は俗世間に戻る。彼らは修行を経て更に条理に適い、人生の更なる高い境地に達する。隠士の隠居と社会進出は弁証的なプロセスである。

 都会の人にとって山の中での「隠居」生活は贅沢なことで、一種の「仮想的浄土」である。生存問題がなくても何日かで寂しさに耐え切れなくなってしまう。多くの人は隠居に憧れを抱いているが、真の修行者というのは山の中で修行、養生をするものである。しかし、生活の中でちょっと困った事にでも出会ったら、「現実の悩みから逃れる」ために隠居生活に憧れを抱いてしまう人もいる。また、一部のギクシャクとした人間関係を抱えている人たち、例えば軽度の自閉症患者たちは、現実生活から逃れるために、人のいないところへ行きたがる。

 できることならみなが自然の中で生活することは、大いに結構なことだが、贅沢なことでもある。これは一つの時代的な話題で、人々は種々雑多な世相に直面しなければならず、多くの人が現実から逃れ、誰もいない浄土に行きたがる。しかし、心の中にさえ浄土があれば、どこにいても同じだ。都会に生活する人にとって、自ら忍耐心を持って修行し、品性を高めて良知を致し、穢れのない慈悲の心を持ってさえいれば、辺鄙な山奥で修行しなくても、自分自身の心の中に浄土を持つことができよう。




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