【コラム】 日本を滅ぼす超高齢社会(12)―高齢者への偏見
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0704&f=column_0704_024.shtml
2012/07/04(水) 09:46
日本の社会保障給付費は高齢者に大きく偏っていることはすでに広く知られている。にもかかわらず、子育て支援、若者の就労支援、若年層の貧困対策といった分野への社会支出は依然としてちぽっけな規模に留まっており、さらにこの現実を無視して、高齢者向けの社会保障・福祉をもっと充実しようとするのが現在日本政治の大きなうねりである。
民主党政権は最低保障年金の実現を目指しているが、いうまでもなくそれは現在よりも膨大な財源の確保が必要となることを意味する。
この制度の是非は別として、高齢者向けの社会保障・福祉をもっと充実しようとする政治の動きは国民から支持を得やすいことは間違いない。これは社会福祉の分野でも強く求められていることである。
社会福祉の分野では、「高齢者は社会的弱者だ」と、誰もが信じて疑わない。さらに、この「真理」は本来の意味に留まらず、様々なところで拡大解釈されている。
後期高齢者医療制度は75歳以上の後期高齢者を一つの保険集団と見なし、保険料の徴収を行うようになった。それが全国的な反対運動の中で批判のやり玉に挙げられた。なぜなら、後期高齢者医療制度は「高齢者いじめだ」とか、「現代の姥捨て山だ」とか、あるいは「高齢者は社会的弱者なのに、保険料の負担をさせるのは可哀想だ」というからだ。これらの論調は明らかに拡大解釈である。
ここでは、高齢者が社会的弱者とされる理由を簡単に説明しておこう。
高齢者は加齢とともに身体的機能および精神的機能が他の世代より弱まっており、疾病にかかる確率が他の世代より高く、身辺の世話を自分ができなくなり他人の援助に頼る必要も大きい。他には、身体的機能と精神的機能の衰退により、社会的参加も困難さを増す。これらは高齢者が社会的弱者とされる本来の意味ではないだろうか。
しかし一方で、より広範囲な解釈も多く行われている。特に社会福祉の分野では、それが非常に目立つ。
高齢者にも保険料を負担してもらう。これに対して「高齢者いじめだ」とか、「現代の姥捨て山だ」といった批判は当たらない。というのは、保険料の負担は高齢者の身体的機能や精神的機能と関係なく、経済力に限ることである。経済力に関しては、高齢者だから他の世代より弱いということにはならない。現実に、高齢者の中にも所得格差や経済格差があり、無所得や低所得の者もあれば、平均水準の所得ないし高所得、さらに金持ちもいるのである。
特に経済的側面から見ると、高齢者の平均所得はむしろ全世帯の平均を上回っている状況にあり、決して「弱者」と一概に言えるものではない。
2010年の「国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省)によると、2009年の1世帯当たり平均所得金額は、「全世帯」では 549.6万円となっている。また、「高齢者世帯」では 307.9万円、「児童のいる世帯」では697.3万円となっている。ここでは「高齢者世帯」の1世帯当たり平均所得金額が「全世帯」および「児童のいる世帯」より少ない。しかし、「高齢者世帯」の1世帯当たり人員数が他の世帯より少ない。そのため、世帯人員1人当たり平均所得金額をみると、「高齢者世帯」では 197.9万円、「児童のいる世帯」では 166.9万円となっており、「高齢者世帯」はむしろ逆転している。
さらに所得の種類別に1世帯当たり平均所得金額の構成割合をみると、全世帯では「稼働所得」が74.3%、「公的年金・恩給」が18.6%であるが、高齢者世帯では「公的年金・恩給」が70.2%、「稼働所得」が 17.3%となっている。
高齢者は主に公的年金など社会保障給付を所得としていることから考えると、日本の社会保障は高齢者の生活保障に大きく寄与しているといえる。
逆に、今の若年層や現役世代は大変厳しい状況に置かれており、彼らの生活保障において社会保障の果たしている機能は極めて弱いと言わざるをえない。その背景として二つの点を挙げることができる。
第一は日本型雇用慣行の崩壊である。バブル経済の崩壊やグローバリゼーションの進行により、企業は熾烈な国際競争にさらされ、生き残るために人員整理、人件費削減、福利厚生の見直しなど労働者に不利なことを次々に行わざるを得なくなった。その結果、労働者全体が大変不安定な状態に追い込まれていく。近年、非正規の男性労働者の割合が増加してきており、女性の雇用者についても、派遣社員、契約社員、パート、アルバイト等の非正規雇用を中心に増加している。2007年には女性の雇用者のうち非正規雇用が過半数を占めている (「平成23年版厚生労働白書」)。
第二は日本の社会保障体系の時代遅れである。日本の社会保障体系は戦後間もない時期に大枠が形作られ、高度経済成長期に完成されたものである。諸制度は職域型と地域型とに分かれるが、職域型は基本的に正規労働者を対象とする。しかし、雇用形態が大きく変わっている今では、従来の社会保障体系は十分に対応できなくなった。そこから落ちこぼれた非正規労働者の多くは貧困な状態に転落していくのである。
だから、民主党議員の辻元清美さんがこの現状を重く受け止め、「若者こそ社会的弱者」という持論を展開している。彼女に言わせると、国全体としてすでに若年層には社会的弱者といってよい人たちが増加し続けている。
確かに、「若者こそ社会的弱者」という見方はこれまでになかったもので、特に社会福祉の分野では常識外れみたいなものである。しかし、グローバル化の大波に投げ込まれ、しかも従来の社会保障体系からそれなりの保護を受けられないような若年層や現役世代は確実かつ急速に増えている。彼らは高齢者と比べ、身体的機能や精神的機能が強い方であるとはいえ、経済的にはむしろその多くは非常に弱い立場に立たされている。
次代を担う彼らはこのような状態だから、当然、日本の超高齢社会の先行きに暗雲が垂れ込めていると深く憂慮しなければならない。
一方、高齢者の持っている力をフルに発揮させることを超高齢社会を乗り切るための切り札と見ている人もいる。近年、いわゆる「生涯現役で超高齢社会を乗り切れる」論はじわじわと浸透している。
しかし、筆者はこの類の論調を疑問視している。理由を挙げると以下のようなことになる。
第一に、他の年齢層と比べて高齢者の身体的および精神的機能は大きなばらつきがある。日本の高齢者人口は2980万人(2011年9月)で、今後ますます増える。一見膨大な数の労働力のように見えるが、実際、全員働けるわけではない。中では非常に元気で働く意欲の高い人もいれば、病気や障害に煩わされ働けない状況にある人もいる。そして、働けるし、働きたい気持ちがあったとしても、高齢者に相応しい仕事が不足するといった問題もある。
高齢者は身体的および精神的機能の面において、必ずしも仕事があれば誰でもできるとは限らない。例えば、肉体的労働(特に重労働)、スピード感を要する仕事、技術開発・イノベーションなどは高齢者よりも他の世代の方が平均的に無難である。
特にこれからのポスト工業時代における産業構造の変化は加速し、技術開発やイノベーションの全産業に占める割合がますます高まり、高齢者の働ける場が相対的に縮小するとも予想される。そういう意味で、超高齢社会を乗り切るに高齢者の活力を最大限に発揮させるという考え方には大きな限界があることは明らかであるといえる。
第二に、他の国と比べて日本の高齢者の就業率が非常に高い。総務省統計局によれば、2005年、高齢者のうち就業している者(高齢就業者)は495万人、就業率(高齢者人口に占める就業者の割合)は19.4%となっている。欧米諸国における就業率をみると、アメリカが14.5%、カナダが7.9%、イギリスが6.3%、ドイツが3.4%などとなっており、日本は欧米諸国より高い水準にある。
これ以上に働くことを高齢者に求めることは、人間の尊厳を損ねかねないと考えるべきではないだろうか。人間は幼い頃や若い時に教育を受け、知識や能力を身に付け、大人になってから60代までバリバリと働き、そして人生最後の時期(その長さは個人差がかなり大きいが、短ければ10年、長ければ20年ないし30年以上)にはその日々をゆとりをもって過ごすことはとても大切であり、その方がよほど人間らしい。(執筆者:王文亮 金城学院大学教授)
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