2012年12月5日水曜日

■100万人が訪れる世界遺産のすぐ隣にある貧困


100万人が訪れる世界遺産のすぐ隣にある貧困
観光産業の光と影
http://diamond.jp/articles/-/28925
2012年12月4日

朝日新聞のマニラ支局長などを経て2009年に単身カンボジアに移住、現地のフリーペーパー編集長を務めた木村文記者が、観光地として人気のアンコール遺跡群と隣接する村の現状についてレポート。

大人気の世界遺産、アンコール遺跡群

 カンボジアの観光業を支える「ドル箱」、北西部シェムリアップ州にあるアンコール遺跡群が、順調に訪問観光客数を伸ばしている。アンコールワット、アンコールトムなどの有名寺院を抱える遺跡群は、なみいる世界遺産の中でも、常に「行ってみたい世界遺産」ランキングの上位に挙がる壮大で華麗な建造物だ。シェムリアップの中心部は小ぢんまりとした街だが、それでも五ツ星の高級ホテルが並び建ち、乾季の観光シーズンを迎えるこれからはますます華やかさを増す。

 シェムリアップ州観光当局によれば、ここには2012年1月から8月までの8カ月で少なくとも100万人の外国人観光客が訪れた。シェムリアップ空港にこの期間、降り立った外国人は約136万5000人。前年同期の104万8000人より約3割も増えていて、「このうち少なくとも85%が遺跡群を訪れている」というのが、当局の見立てだ。

 最も多いのは、国境を接する隣国ベトナム、企業進出もめざましい韓国や中国からの観光客。順位は多少入れ替わるが、日本人観光客は、だいたいその3カ国の次点につけている。それだけでなく、国境にあるもう一つの世界遺産「プレアビヒア」をめぐり武力衝突まで発生したタイとの関係が改善されてからは、タイ人観光客が急増している。

 また、経済力を増してきたラオスからも多くが訪れるようになった。シェムリアップだけでなくカンボジア全土の統計になるが、タイ、ラオスから同国を訪れた人の数は、2012年上半期でそれぞれ9万2000人、10万7000人。どちらも前年同期の2倍近い人が訪れている。

 この国際的な観光地に隣接する村に、栄養不良の子どもたちがいて、中学校すらないことを、私は昨年まで知らなかった。

 教えてくれたのは、シェムリアップ在住のカンボジア人、チア・ノルさん(46)と、小出陽子さん(46)夫妻。チアさんは、カンボジアのNGO「アンコール遺跡の保全と周辺地域の持続的発展のための人材養成支援機構(JST)」の代表を務め、陽子さんらとともに、日本の遺跡修復チームが活躍する「アンコールトム」遺跡の隣接地に広がるアンコール・クラウ村の支援を続けている。

JSTの始まりは、チアさんがたった一人で始めた活動だった。
ポル・ポト政権下でチアさんが味わった苦難

 チアさんは1966年、シェムリアップ州に生まれた。父親は州立病院の外科医で、比較的豊かな暮らしをしていたが、内戦とポル・ポト時代の混乱で、チアさん一家は散り散りになった。

 1975年にポル・ポト派が政権をとって間もなく、一家は父親が医師であることを隠して移住したが、職業がばれて父親だけが連行され、ポル・ポト派に殺害された。当時、前政権下で医師や教師をしていた知識層は、「スパイ」などの疑惑をかけられ、多くが殺害された。チアさんも、子どもたちを集めた収容所で強制労働をさせられた。灌漑用の堀の造成、田植え、牛の世話。学校へ行くこともなく、十分な食糧も与えられず、朝3時半から夜まで働き続けた。少しでも不満をもらせば「裏切り者」と密告され、殺されるのが当たり前だったから、ため息をつくことさえはばかられた。

 暗黒の時代は、10歳そこそこの子どもに生き延びる知恵を授けた。チアさんは出自を聞かれれば「農家」と答えた。文字も読めないふりをした。共同体の中の「だれ」に気を配るべきかを敏感に悟った。農作業中に大けがをして医者に行けなくても、自分の尿をかけ、タバコの葉で傷口をおさえるすべを身につけた。

 だがどんなに注意深く息を潜めて生きても、ポル・ポト派の粛清は罪のない国民にまで刃を向けるようになっていた。チアさんの兄2人も、スパイとみなされ、同派に拷問されて殺された。兄弟のなかでたった一人生き延びたチアさんは、タイ国境の難民キャンプへ三日三晩歩いてたどり着き、1980年、14歳のときに日本へと渡った。

 それから14年間、チアさんは日本で暮らした。だが日本語が分からず、14歳で小学校5年生に編入、中学に入ってからはいじめや仲間はずれにあった。「平和で発展した日本」は必ずしも温かい場所ではなかった。かといって、混乱する祖国にも戻る場所はなかった。

 自分の居場所を探しあぐねていたチアさんに、故郷シェムリアップ州での仕事が舞い込んだ。1994年、日本政府によるアンコール遺跡の保存修復事業が始まり、日本語が堪能なチアさんが日本人とカンボジア人の間の調整役としてチームに抜擢されたのだ。同年4月、チアさんは二度と戻ることがないと思っていた祖国に帰国した。

 チアさんは、遺跡の保存修復事業で、2人の石工に出会う。威厳のある棟梁と、心優しい副棟梁。どちらも1960年代から、遺跡群修復の作業員として働いている。修復・保全の作業員たちは歴史に名を残すことはない。が、彼らは何十人ものカンボジア人石工を、危険で困難な現場で心身ともに束ねる重要な役割を担ってきた。遺跡の歴史には欠かせない存在だ。棟梁たちと知り合って間もなく、彼らが暮らすアンコール・クラウ村を訪れたチアさんは驚いた。

 500世帯ほどが暮らすクラウ村は、住民の6割近くが遺跡の保全修復や監視員などとして働く「遺跡を支える村」だ。だが、世界中から競うように援助資金や人材が集まる世界遺産の遺跡群とは対照的に、彼らの暮らしは貧しいままだった。

ドル箱観光地に隣接する村の厳しい現実
破壊された人々の暮らしをゼロから作り直すチアさんの活動

 村には壊れた木造の橋しかなく、雨季には人々は泳いで川を渡った。安全な道路もなかった。子どもたちは、みな小柄。13歳の子どもたちの身長と体重を測ったら、日本の同年の子どもの平均より身長は20センチ低く、体重は20キロも少なかった。クラウ村の小学校には毎年約200人が入学するが、6年生まで学校に残るのはそのうち60人余り。あとは働き手となるため、小学校を辞めてしまう。

 チアさんはまず、村に安全なコンクリートの橋を造ることから始めた。こつこつと自分の人脈で寄付金を募り、自ら作業場に足を運ぶチアさんの姿は、遺跡修復事業に携わる日本人たちの心を動かし、2005年には彼らも参加するJSTが発足した。

 チアさんたちJSTの事業は、内戦で根こそぎ破壊された社会をゼロから作り直しているかのようだ。橋、道路、学校、食料。教育を建て直し、経済を生み出し、文化を根付かせる。チアさん自身が、奪われた半生を取り戻すかのようにもみえる。

 ポル・ポト時代を知らない30代以下が国民の7割を占めるようになったカンボジアだが、社会と経済を再建しようとする原動力は、やはりポル・ポト時代と内戦の体験ではないかと私は思う。この国の40代以上の人々は、心のどこかに「生き残った者の責任感」を抱える。それが生きることへの執着と情熱となって新生カンボジアの骨を形づくっているように、私には見える。カンボジアの人々と共に歩むのであれば、日々肉づきのよくなる身体ではなく、この見えない骨を理解しなくてはならない。

 今、クラウ村では中学校の建設が始まっている。クラウ村を含む周辺5村には中学校がない。小学校さえ満足に通わないのは、卒業しても通う中学校がないからだ。チアさんは自身が所有する土地を提供し、JSTが資金を集め、中学校の建設にこぎつけた。いつかこの施設を高校や専門学校にも発展させたいと考えている。(JSTウェブサイト:http://www.jst-cambodia.net/)

 カンボジアの経済発展は、観光産業をひとつの柱としている。けれどその光は、一体どこまで届いているのだろうか。クラウ村でわずかな食事を分け合う子どもたちを見て、思う。ドル箱観光を支えるカンボジアの人々の暮らしが、今も心ある人々の篤志に委ねられている現実がここにある。

筆者紹介:木村文(きむら・あや)
1966年生まれ。国際基督教大学卒業後朝日新聞入社。山口支局、アジア総局員、マニラ支局長などを経て2009年に単身カンボジアに移住、現地発行のフリーペーパー「ニョニュム」編集長に(2012年4月に交代)。現在はフリー。



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