2012年12月3日月曜日

■【台湾ブログ】友情忘れず不遇の日本人を助けた私の祖父


【台湾ブログ】友情忘れず不遇の日本人を助けた私の祖父
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=1203&f=national_1203_002.shtml
2012/12/03(月) 10:11

 ブログタイトルは「台湾ワン!(Taiwan One)」、自己紹介によると筆者は「1995年来日の台湾田舎娘」、「母国台湾大好き、台湾大好きな日本人が大好き」だ。日本について、日本と台湾についての文章を、月に何回かの割合で発表している。

 同ブログは11月12日、「高校時代の同級生の文章」として、その同級生の祖父にまつわるエピソードを紹介した。同級生の祖父は1911年(明治44年)生まれ、92年に82歳で永眠したという。つまり、日本統治下の台湾に生まれ、さらに蒋介石、蒋経国、李登輝という3代にわたる国民党政権下の台湾を生きた人だ。

 文章は、祖父の青年時代を「日本統治時代の良い時期(ほぼ大正年間)と戦時中(1930年代-1945年)」と表現。「田舎」にある家庭内では、父が祖父を「多桑(ドゥオサン=とうさん)」と呼んでいたという。自宅も畳敷きの和室で、祖父はときどき、ご飯にお茶をかけて食べていた。後になって、「お茶漬け」という日本風の食べ方と知った。

 幼いころ、祖父には「日本の童謡」も教えてもらった。歌詞は忘れたが、後になって在日華僑にメロディーを口ずさんで聞いてもらったところ、「桃太郎の歌」と教えてくれた。戦後になっても、日本統治時代の雰囲気が濃く残る家庭だったと分かる。

 祖父はかつて台南和順農場で働いていた。そのとき、山本さんという日本人と仲がよくしていた。山本さんは1945年に日本に戻ったという。詳しい経緯は紹介されていないが、日本が敗戦で台湾を放棄したことにともない、やむをえず帰国したことは明らかだ。

 その後、山本さんとは音信不通になった。日台双方の戦後の混乱などが原因と考えられる。祖父は1980年になり父に命じて、山本さんを探させた。文章は山本さんを「連絡の途絶えた友人」と表現。台湾人である祖父が、山本さんに対して「かつての支配者・被支配者」という関係は別にして、「人としての強い友情」を感じていたことが分かる書き方だ。

 ようやく探し当てた山本さんは「帰国後は境遇に恵まれず、厳しい生活」をしていた。祖父は「昔の厚誼へのお礼」として、山本さんに個人的にお金を送ったという。そして、山本さん一家が子どもと一緒に台湾を訪れた際には、昔の農場で働いていた仲間が、1カ月にわたって、かわるがわる、山本さん一行をもてなした。「僕たち家族も後に日本を訪れた」という。

 ブログ筆者は「実は、彼のみならず、いま中年期に入った多くの台湾人は、祖父母を通じて、間接的ながら日本という国の体温を感じてきたし、この国に対して懐かしいような新鮮なような感情を抱いている」との指摘した。

 同ブログは、筆者の個人的見解だけでなく、他の台湾人の日本に対する考え方もしばしば紹介している。訪日した台湾人が、空港職員などの仕事ぶりを紹介して、台湾の都市は日本と比べて、かつては「ハード面では20年、ソフト面では50年、遅れている」と思ったが「今では、ハード面の遅れは恐らく30年にとどまらない」との感想を示したと紹介している部分もある。

 「あまりにも謙遜しすぎ」と思えなくもないが、日本のよい部分と自らのよくない部分を両方とも率直に認める姿勢からは、“唯我独尊”にならない精神の柔軟さと、台湾をよくしていこうという意気込み、言いかえれば“郷土に対する自信と郷土に対する自然な愛”を感じることができる。

 なお、同ブログの筆者は自分の職業を明記していないが、ブログページには「中国語・日本語を熟知した台湾人講師による中国語教室」へのリンクが設けられている。



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