2013年4月11日木曜日

■わが家を救ったマキャベリの『君主論』


わが家を救ったマキャベリの『君主論』
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2013年 4月 09日 18:02 JST
By SUZANNE EVANS

 再婚して間もなく、夫のエリックと私は子供たちと新居に引っ越した。当時の私たちは、2つの家族をうまくなじませようとしていた。

 当初からそれは大混乱以外のなにものでもなかった。8歳以下の子供4人(2人はそれぞれの前の配偶者との間にできた子供、残り2人は私たちの間の子供)の世話をする苦労は言うまでもなく、家事にさえ終わりが見えなかった。ちょうどその頃、私は訴訟事件摘要書を書くという新しい仕事を在宅で始めたばかりで、史学の博士号を取得するための論文も終わらせようとしていた。そんなわけで私は子供たちの絶え間ない口げんかに悩まされながら、数日間にわたって家に閉じこもるという生活を送っていた。

 私も多くの母親たちと同じで、怒鳴ったり、がみがみ言うことで子供たちを変えようとした。こうしたやり方は当然だが、子供たちに逆効果をもたらした。ある特に大変な1日を過ごしたあと、私は乱暴な足取りで仕事部屋に入っていった。作業をするにはあまりにも疲れていたので、デスクの前に座ってぼんやりとほこりっぽい本棚を眺めた。するとそのとき、一冊の古ぼけた本、『君主論』が目に入った。

 本棚からそれを引っ張り出し、ニッコロ・マキャベリの肖像が描かれたその表紙をじっと見る。私を見つめ返すつつましくも決意に満ちた目、事情を解しているかのような笑みをたたえた薄い唇、力強さと自信にあふれた姿勢――当時の私にはないものばかりだった。


Sean McCabe
 私は本を開くと読み始めた。マキャベリの名は二枚舌、策略、狡猾さ、容赦なき力の行使などの代名詞となっている。それでも私は、読めば読むほど興奮していった。

 『君主論』を書き始めたとき、マキャベリ自身も失意のどん底にあった。フィレンツェの高級官僚という職を失い、逮捕、投獄、拷問という憂き目にあっていた。フィレンツェを統治していたジュリアーノ・デ・メディチを暗殺して政権を強奪するという陰謀にかかわっていたとされたのだ。釈放されたもののトスカナの田舎に追放された彼は、メディチ家に気に入られれば、政府で新しい地位に就けるのではという思いから政治の手引書を書く決意をする。こうして生まれたのが歴史上最も画期的で広く中傷されてきた政治的な論文『君主論』である。

 「目的は手段を正当化する」という悪名高いフレーズはマキャベリの言葉とよく誤解されているが、そうではない。彼の方法論は権力を手に入れること自体を重視していない。彼は権力を国の安全や安定を確保するためのツールと捉えていた。彼は君主たちに、どうすれば臣民の幸福と満足のいく生活を確保できるかを教えたかったのである。

 安全で安定した家庭、幸福で裕福な子供たちと置き換えると、それは君主ばかりか、親にとっても価値がある目標に思えた。私は自分の王国を取り戻すのに、マキャベリの原則が使えるかもしれないと考えた。

 私の子供に対しては、甘やかしても、優しくしてもダメだった。懇願したり、交渉したり、しつこく言ったり、丁寧に頼んだりしてもダメだった。それでも実際的で厳格なマキャベリ的戦略ならうまくいくかもしれない。私は『君主論』を携え、本格的なマキャベリ的母親になることを目指した。それからすぐ、その偉大な政治顧問による重要な金言のいくつかを実行に移してみた。

 

 「気前の良さほどそれを発揮する人自身を急速に食い尽くしてしまうものはない。気前の良さを売り物にしているうちに、その財力はいつしか失われてしまう。貧乏になるか、人にさげすまれるか、あるいは貧困から逃れようとして強欲になり、人の恨みを買うのが落ちである」

 人間は気まぐれで、偽善的で、欲張りで、不誠実なので、忠誠心を獲得したり失ったりするのは簡単だとマキャベリは主張する。忠誠心の移ろいを防ぐために、君主は気前が良いという評判を築くべきだという。しかし彼は、気前が良すぎると君主はすぐに国を破綻させてしまい、臣民の気前良さを求める気持ちは高まる一方となってしまうとも警告している。

 私はすぐに自分の子供たちを思い浮かべた。


Sean McCabe
ニッコロ・マキャベリ

 私もすべての母親と同じく、子供たちのさまざまな物質的欲求を満たすのに苦労している。ところが『君主論』を読み、多くを与えれば与えるほど、子供たちはより多くを期待し、ありがたみは薄れていくということに気付いた。そこで、次に小売りチェーンのターゲットに行くとき、私はまったく疑っていない子供たちにマキャベリの原則を適用してみた。

 そうした買い物では通常、欲張った子供たちがDVDや人形を次々とカートに投げ入れていた。私がそうした商品を戻すように言うと、子供たちは決まってかんしゃくを起こしていた。しかし今回、私にはある計画があった。大騒ぎが起きる前に入口で立ち止まり、子供たち一人ひとりに10ドル札を手渡した。

 「これ、なあに」と私の7歳の娘、テディが聞いた。

 「10ドル札よ。今日あなたが使えるのはそれだけだから、よく考えて使ってね」と私は言った。

 店に入ると、子供たちは欲しい物の値段を慎重にチェックしていった。「えっ、29ドルもするの」ジャスティン・ビーバーのバックパックの値段を見たテディが驚いて声を上げた。「ばかみたい。そこまでの価値はないわ」テディはぶつぶつ言いながらそれを棚に戻した。

 買い物はこれまでにないほど順調に進み、お金の価値を学んだ子供たちは、いつもより感謝している様子だった。

 

 「支配者は……敵の軍勢を分断するためにあらゆる手を尽くすべきで、敵の君主が部下たちを疑うように仕向けたり……その軍隊と分裂する原因を与えたりすると、これにより敵は弱まる」(『君主論』ではなく『戦術論』から)

 「分断統治」については私もすでに経験済みだった。子供たちは自分たちの要求をかなえるために夫と私を対抗させるのが得意なのだ。ところがついに、私がこの原則を利用するときが来た。

 私はテディと8歳の継息子、ダニエルを分断させた。どちらが学校でより良い成績を取るかで2人を競わせたのだ。

 パーフェクトに近い2年生の成績表を持ち帰ったテディを「すばらしいわ」と言って褒め称えた。ご褒美としてテディが好きなレストランに行き、家族全員で夕食を食べながら祝ったりもした。その一方で、成績がぱっとしなかったダニエルが得たものは、1歳下の妹に負けたという不名誉だけだった。

 ところがこの敗北がダニエルの競争心に火を付けた。その学年度の終わり、テディとダニエルの2人共が優秀な成績表を持ち帰った。肝心なのは、子供同士を対抗させたことで、私は最終的に望んでいた結果を手にし、2人にとっても有益だったということである。

 「今日偉業をなしているのは、信義のことなどほとんど眼中になく、狡知によって人々の頭脳を欺くことを知っていた君主であり、そうした君主は結局、信義に依拠した君主たちに打ち勝ってきた」

 その勝利を収めたことで私は『君主論』の中でも、マキャベリの主眼が具体的なアドバイスをすることから偉大なリーダーの性格特性描写に変わっている部分に目を向けた。君主にとって常に信頼できる人物に見えることは重要だが、その国の統治を脅かすようならば約束を守るべきではないと警告している。またすべての人間は不正直なので「それで有利になるのではれば、君主は不誠実になるべきである」とも書いている。

 これは政治においてはあてはまるかもしれないが、自宅で試すのが賢明なのかは分からなかった。そんなときたまたま、夫と私は週末にカリフォルニア州サンタバーバラで開かれるゴルフ大会に招待された。

 親なら誰もが承知していることだが、スポーツ、誕生日会、友達と遊ぶ約束など、週末の予定は子供中心のイベントで埋まっている。その週末も同様で、私が参加することになっていた子供たちのイベントがめじろ押しだった。それでも私は休息を心底必要としており、子供の世話役についても手配できそうだった。

 そこで、子供たちの抵抗と不必要な罪悪感を最小限に抑えるために(「ゴルフに行くの?だったら一緒に行ってもいいでしょ」と言われないように)子供たちには夫と私は出張に行くのだと告げた。その結果、私は十分にリラックスして帰宅でき、祖父母たちをへとへとにさせた子供たちは私たちの帰りを大いに喜んでくれた。

 言い換えると、そのおかげで自分が楽しめ、リラックスできるのなら、子供たちに嘘をつくことに罪悪感を覚える必要はないのである。幸せを感じ、リラックスしている母親は子供にとっても絶対に有益なのだから。

 

 「自らの臣民の団結と自らに対する忠誠を維持する限り、支配者はたとえ残酷だという評判がたったとしても・・・・・・あまりにも慈悲深いためにかえって混乱状態を招く者よりもよっぽど慈悲深い」

 マキャベリの「良き軍隊のないところに良き法はあり得ず」という言葉と法の正当性そのものが強制力の脅威に支えられているという理論に遭遇したとき、私は一瞬立ち止まった。原則として、子供が何歳であろうと、私は罰として尻を叩くことを良いとは思っていないし、それははっきりさせておくべきだろう。ところが、娘のケイティが5歳のとき、この問題を考える出来事があった。ある日、私が見ていないと思ったケイティが家から抜け出そうとしたのだ。

 ダウン症を抱えているケイティは普段は幸せそのものなのだが、たまに頑固で挑戦的になることもある。ボトルに入っていた水をわざと私のノートパソコンにかけたり、家や学校から頻繁に抜け出したりといった悪さをしていた。この日に限って、私はケイティの尻を素早く叩いた。

 彼女は驚いて大きく目を見開いたが、大声で泣き出すどころか、すすり泣いたり、べそをかくこともなかった。翌日にも同じことをしようとした娘に対して私はまた尻を叩いたが、ケイティは少し顔をゆがめただけで、そのあと挑戦的ににっこりと笑って見せた。この作戦に効果がないのは明らかで、状況はむしろ悪化していた。

 私が『君主論』にざっと目を通していると「君主が軍隊のことよりも優雅な事柄について考えていると、その国は失われてしまう」という一節が飛び込んできた。数日後、ケイティはまた家を抜け出し、裏庭に隠れようとした。このとき、私はケイティをすぐに自分の部屋へ連れ戻した。

 「私に断りなく家を出てはいけないことになっているでしょ」私は厳しい口調で言った。ケイティはそれにうなずいた。「だったら、自分の部屋で30分間のタイムアウトよ」と私が宣言する。「今後、あなたがこのルールを破る度に、部屋で反省のタイムアウトをしてもらうわ。毎回よ」私はゆっくりとドアを閉めてその場を離れた。

 障害を抱えた子供にしつけをする難しさがわかっていない人は、この罰が厳しすぎると感じるかもしれない。しかし、子育てと政治においては背景事情がすべてである。私の優しくて元気で頑固な娘の安全と無事を確保するのに、そうした実際的で厳しいマキャベリ的戦略が必要ならば、それはケイティにとっても最善の利益となる。

 30分後、私がケイティの部屋に入っていくと、娘はベッドに座って絵本のページをめくっていた。ケイティは顔を上げると、きまり悪そうに微笑んだ。

 「ちゃんと言うことを聞くなら、出てきてもいいわよ」

 「わーい」娘はくすくすと笑って手を叩いた。

 

 「すべての人間の行動は、特に君主のそれは・・・・・・結果によって判断される」

 わが家に平和と予測可能性が広がり始めると、私はマキャベリの最も悪名高い助言に注目した。「目的は手段を正当化する」と誤って覚えられていることが多いが、マキャベリが本当に言わんとしていることはもっとやんわりとしている。他人は行動について最終的には結果で判断する、ということなのだ。

 どちらにしても、この金言は役に立った。ある晩、夫がベッドに入ってくるなり私を引き寄せてこう言った。「本当に子供がもう1人欲しいんだ」それに対して私はこう応じた。「それも素敵だけど、あなたには代わりにパイプカットの手術を受けてもらうわ」

 私は4人のにぎやかな子供たちをようやくある程度落ち着かせ、自分の王国を勝ち取ったばかりだった。子供が1人増えたら、その王国は明らかに脅かされる――つまり、私には受け入れがたい結果である。夫は当初、私の勅命に難色を示していたが、それを受け入れるまでベッドでの愛情行為はお預けだと私が言うと、医者に予約を入れることにすぐに合意してくれた。

 マキャベリが示した道に従うことに関して策略的、操作的なところは一切ない。大事なのは権力を維持し、毅然とした態度で法を行使することである。フィレンツェ出身の偉人が生きていたら、私という新しい弟子を誇りに思ってくれたはずだ。

(筆者のスザンヌ・エバンス氏は米国で4月9日にサイモン・アンド・シュースター/タッチストーンから出版される『Machiavelli for Moms: Maxims on the Effective Governance of Children(母親のためのマキャベリ:子供の効果的な管理に使える金言)』の著者)



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