“アンパンマンの遺言”本当の正義は戦わない やなせたかしさん
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120728/ecd1207281831004-n1.htm
2012.7.28 18:30
. 絵本作家で漫画家のやなせたかしさんの原作を基にした人気アニメーションシリーズの劇場版24作目「それゆけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島」が公開中だ。インタビューに応じたやなせさんが、作品や半生、“仕事”で縁がある関西を語った。(橋本奈実)
間に合ってよかったね
少年のようにちゃめっ気たっぷりに笑い、こう切り出した。「関西から取材に来たの? 僕の“最後のインタビュー”だよ。間に合ってよかったね」。93歳。言葉とは裏腹に、階段を下りるその足取りは軽い。豊富な経験と知識を基に、的確に言葉を紡いでいく。
「そうだ、関西といえばね、今度、神戸にもできるんだ。関西では初めてなんだよ」-。
兵庫・神戸市の神戸ハーバーランド内「モザイクガーデン敷地」に、「神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール」(仮称)が建設されると発表された。来年4月開業予定だ。
「アンパンマンこどもミュージアム」は、アンパンマンの世界を「見て」「触れて」「遊ぶ」ことができる体験型施設。現在、神奈川・横浜市、三重・桑名市(施設名は名古屋)、宮城・仙台市と全国に3施設あり、神戸が4番目となる。
また、やなせさんの出身地である高知・香美市には「香美市立やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム」がある。「これを含めると全国5カ所。こんなにミュージアムがあるキャラクターってほかにはないでしょ。それだけ、みなさんに愛されているんだなとありがたく思います」
アンパンマンとペコちゃんのコラボ!? 神戸でも
「-こどもミュージアム」には、やなせさんにとって、ある“不思議な縁”がある。スポンサーに不二家が入っており、施設内にアンパンマンとペコちゃんがコラボレーションしたレストランがあるのだが…。「実はね、昔、デザイナーをしていた頃に、頼まれて一度だけペコちゃんの絵を書いたことがあるんですよ。そのペコちゃんと一緒にやっているって、不思議だよね」とほほえむ。
アンパンマンとペコちゃんのツーショットが楽しめる“コラボ・レストラン”は神戸にも入る予定。「各地の施設は、非常に好調ですから。関西のみなさんに喜んでもらえるものになると思います。楽しみにしていてほしいな」
最近、“関西”とは、縁がある。東日本大震災後、知り合った岩手・陸前高田の老舗しょうゆ店を復興させるため、天使をモチーフにしたレッテルを無料でデザインをした。この「天使のしょうゆ」が大ヒット。来月、洋菓子のヒロタ(東京)とのコラボ商品も発売される。
「しょうゆアイスをね。(洋菓子の)ヒロタって、発祥は関西(大阪)だよ。きっと俺と思いは同じなんだ。俺も微力ながら、できることをしたいと考えているから」
新作映画は「復興」がテーマ ばいきんまんも活躍!
そんなやなせさんの原作を基にした、公開中の映画「それゆけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島」のテーマは「復興」だ。天候異変のため、バナナが枯れた島をよみがえらせようと、アンパンマンたちはバナナ島へ向かう。
「バナナはね、子供も、大人も好き。僕も毎日食べるんですけど。デパートへ買いにいくと、夕方には売り切れちゃう。そんな人気の食べ物でやろうと」
加えて元デザイナーとしての視点もあった。やなせさんはかつて三越宣伝部のデザイナーで、いまも使われる包装紙の筆記体文字は彼が描いたものだ。アニメーション作りにおいても、冷静な判断を持ち続ける。「アニメで最も手間がかかるのが、群衆処理。島の住人がバナナなら、描くのが易しくなる。その上、バナナは非常に形が愛らしい」と笑った。
今作では“敵”である、ばいきんまんも島のために活躍。そこに、作者の思いが込められている。「一大事に、敵も味方もないでしょ。現在、私たちが住む地球は相当に危なくなっている。そんなときに、戦争で互いを殺し合うのは実に愚劣」と語気を強める。「そのうち気付くはずです。国内で戦うことがバカげていると気付いたんだから。いざというとき、助け合うよりほかにないとね」
戦争体験が生んだアンパンマン
自身の戦争体験が、アンパンマンの誕生に大きく起因している。昭和16年に徴兵され、中国へ出征した。当時、食糧がなく、タンポポなどの野草を食べたことも。人間にとって最もつらいのは「飢え」だと痛感した。さらに敗戦と同時に、正義とは何かを考えた。
「正義とは、ミサイルをぶっ放して相手をやっつけることなのか。俺はそうじゃないと思ったのね。飢える子供たちを助ける方が先決なんじゃないかと」
世界には今も、飢えで亡くなる多くの子供たちがいる。ストリートチルドレンの報道にも心を痛める。「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろうと。そんなヒーローを作ろうと思った」
アンパンは、表面がパンで中身はあんこ。食事にも、お菓子にもなることに着目。言葉の“音の響き”がいいことにも惹かれたという。実は自身も毎朝パン食。「おいしいし、簡単だから、30年くらいずっとそうです。最近は昼もパン。アンパンも好きだったけど、糖尿病になって食べられない」と笑わせた。
自ら傷つくことなしに正義なし
ヒーローが自らの顔をちぎって弱者に与えるのは「自分が傷つくことなしに正義を行うことはできない」というやなせさんの考えから。昭和48年に発表。児童向けに書かれた絵本だったが、内容が難しすぎると評論家に酷評された。だが、幼稚園では幼児たちが奪い合って読み、図書館貸出率が第1位と聞いた。本人も驚く反響だったという。
「(作品を)認めてくれたのは、2、3歳の幼児だった。驚いたよ。俺自身、ずっと小さな子供向きの本を書いてこなかったから。アンパンマンの最初のキャラクターはかわいくないしね」と笑う。作品の中に込めた“献身の心”は、頭で理解できずとも心で感じられるのだと分かった。幼児向けにキャラクターを3頭身にするなど、愛らしさをプラスした。
「着ぐるみやグッズなどを作りやすいキャラクターだとよく言われるんだけどね。それは、俺が元デザイナーだからだよ(笑)。少ない描線にし、シンプルに作れるようにしているからね」とほほえんだ。
「復興」にかける思い
90歳を超えたとき、引退を考えたことも。東日本大震災直後、心筋梗塞と肺炎、腸閉塞を同時に起こして入院したが「“生きて”しまったんだよね。目も耳も悪いし、体は相当に傷んでいる。でも、生きている間に、やれることはやると決めた」という。
被災地、仙台の少女から手紙が来た。「私は地震がきても少しも怖くない。アンパンマンが助けに来てくれるから」-。子供の心にアンパンマンは実在する。「幼い俺もサンタクロースがいると信じていて、家に煙突がないから、クリスマス前夜は寒い中、窓を少し開けて寝たんだよ。だから非常に責任を感じちゃってね。なんとかして元気づけなくてはいけないと」
被災地への寄付はもちろん、ポスターやハンカチ、バンダナなどのグッズも送っている。今回の映画も「自分としてはいろいろな思いを込めたが、観客にはとにかく面白く楽しく見てもらえたらいい。最後は“バナナダンス”で楽しくね」と話した。
復興-。この言葉で頭に浮かぶのは、戦後の引き上げの時に通った広島県だ。焼け野原で何もないさまを目の当たりにし、愕然としたのは今もハッキリと覚えている。「本当に何にもなかったんだ。でもね、百年、草も木も生えないといわれていたけど復興したよね。(震災から)神戸も頑張ったよね。俺は今度もできると信じている」
このほど日本漫画家協会の理事長を辞任。すべての選考委員も降りた。「目を悪くして、全作品を読めないから」。審査に際し、幅広いジャンルの話題作や注目作に目を通してきた。新聞は6紙読み比べてきた。「世の中は突然変わる。俺たちの世界も、漫画の世界もね。うっかりすると落ちこぼれてしまうから、新しい知識を得る努力をするのは当然。それが難しくなってきたので…」。強い責任感の表れだった。
平成20年、産経新聞で連載中の「ひなちゃんの日常」が同協会賞大賞を受賞した。新聞漫画の受賞は珍しいことだった。「俺はね、“ひなちゃん-”は新聞漫画としてひとつの革命をやっていたと思う」。縦4コマではなく、横のコマで一面のカラー掲載であることを評価した。
「新聞社としてもユニークな試みだよね。内容も社会風刺ではなく、“日常”を追っているところが面白い。絶対に認めるべきだと思った。受賞してよかったと思っています」
「手のひらを太陽に」などの作詞家としても知られる。自身が手掛けた「アンパンマンのマーチ」の歌詞は迷う人々へのメッセージだ。「なんのために生まれ、何をして生きるか。分からない人が結構いる。俺もそうだった」。
まだまだ細胞(?)が元気! 超人エピソード
絵を描くのが好きでデザインの道に進んだ。戦後、三越宣伝でデザイナーを経験してからフリーに。漫画やイラストを中心に、さまざまな仕事をした。インタビュアーや舞台美術と構成、映画やドラマのシナリオ執筆、詩集出版、アニメーションのキャラクターデザイン…。昭和44年、自身が手掛けたラジオドラマを基にした初の絵本「やさしいライオン」を出版。このヒットにより描いたのが、「あんぱんまん」だった。
紆余曲折の上、たどり着いた道。それでも当初は作品への思いを貫けなかった。「ばいきんまんを、もっと悪者にしろ、とかね。いろいろあったな…」。制作者の意向に合わせ、手直しをしたこともあったという。
だが作品を重ねるうちに分かったことがある。「まず良い物を作る。そうすれば自然に利益は上がるんだ。先にもうけを追っちゃダメ。大衆は正直だからね」。スタジオジブリの成功の理由はそこにあると考える。ある製菓会社が、厳しく素材を選別し、納得のいくもの以外は製品にしないという真摯な商売から、成功の秘訣を学んだ。
「俺がそれに気付いたのは60歳過ぎてからだった。異性も同じなんだよね。本人がいいヤツなら、追っかけなくても向こうから寄ってくる」と笑った。
朝は必ず体操をする。食事にも気を遣い、“特製スープ”を毎日飲む。「いや、もう限界だね。いよいよ天命が尽きるところまできた」とけむに巻きつつ、“超人エピソード”を明かしてくれた。80歳のときのこと。帯状疱疹を患い、顔にシミができた。一生残るといわれたが、まもなく消えてしまったという。
「皮膚科の先生が驚いていたよ。どうも細胞が元気みたいでね。高齢で発症したがんもすぐに再発し、10回も手術しましたから」と笑わせる。「だからね、奇跡が起きるという、いちるの望みはあるんだ。元気になったら何でもやるよ」
そういう彼は、来年の劇場版25周年に向けてアイデアを練る。次作のテーマは「希望」。子供に、大人に、夢を与える仕事はまだまだ続いていく。
やなせたかし 大正8年、高知県出身の93歳。本名、柳瀬嵩。東京高等工芸学校(現・千葉大学)卒業後、三越宣伝部デザイナーを経て、絵本作家、漫画家、作詞家として幅広く活躍。昭和48年「キンダーおはなしえほん」に「あんぱんまん」を掲載。63年「それいけ!アンパンマン」のテレビ放送開始。平成元年、シリーズ初の劇場版が公開された。15年までの30年間、月刊誌「詩とメルヘン」の編集長を務め、19年から「詩とファンタジー」を責任編集。21年には「それいけ!アンパンマン」が世界で最もキャラクターが多いアニメシリーズとして世界ギネス記録に認定された(当時1768体、現在も増加中)。
0 件のコメント:
コメントを投稿