【コラム】ハワイで絶望を感じた理由
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2012/05/27 09:56 朝鮮日報
71年前の風景をそっくり切り取ったような絵が、米国ハワイ航空博物館にかかっている。1941年12月6日、若者たちが早朝からワイキキビーチに集まっている絵だ。エメラルド色の海に跳び込もうとやって来た若者たちは、その翌日にそこで歴史に残る惨劇が起ころうとは思いもしなかったことだろう。
日本は1910年に朝鮮を併合、31年に満州(現:中国東北部)に侵攻したのに続き、37年には中国との全面戦争に突入した。これを受けて米国が石油禁輸措置を取ったため、41年夏、日米は戦争に突入した。先制攻撃を決めたのは日本だった。淵田美津雄中佐が中島九七式艦上攻撃機(B5N2)に乗り込み攻撃を指揮、33隻の戦艦と補助艦、6隻の航空母艦からなる帝国艦隊が付き従い、真珠湾に停泊していた米海軍艦艇を攻撃した。そして米海軍太平洋艦隊所属の艦艇185隻が日曜日の朝、犠牲になった。午前6時40分から10時まで続いた攻撃で2390人が死亡、数百人が負傷し、軍艦21隻が沈没した。中でも最も悲劇的な最期を遂げたのは、戦艦アリゾナだった。アリゾナは朝8時06分に投下された800キロ爆弾を受け、乗組員1177人と共に約9分で沈没した。
それから3年半の間、「リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れるな)」というスローガンが全米を覆い尽くした。これに異議を唱えた米国人はいなかった。このような団結の結果、米国はミッドウェー海戦で状況を一転させ、原子爆弾2発で日本を無条件降伏させた。だが、戦争が終わった後も米国は真珠湾を忘れなかった。50年に太平洋艦隊司令官のアーサー・ラドフォード提督は「真珠湾に沈んだ戦艦アリゾナに国旗を掲揚せよ」と命じた。それから8年後、アイゼンハワー大統領が記念館建設を承認した。
アリゾナ記念館を設計したのは建築家のアルフレッド・プレイス氏だ。同氏は戦艦を引き揚げるのではなく、その上に記念館を建て、次の通り語った。「中央部は陥没した形状になっているが、端の方は強く丈夫だ。これは最初の敗戦と最後の勝利を表現するものだ」
真珠湾はハワイを訪れる観光客が必ず立ち寄る観光コースだ。旅行会社が真珠湾を「必須コース」に入れているからだ。歴史上初の攻撃を受けた米国人も、惨劇を起こした日本人も、その現場を見るべきだ。
ハワイは先住民のやるせない思いも抱えている。古ければ西暦300年、遅くとも1200年には同地に移住していたポリネシア人たちの国が西洋に知られることになったのは、1778年のジェームズ・クック船長によってだ。そして1845年ごろ、カメハメハ3世が西洋の文物をいち早く取り入れ、ハワイ諸島を統一した。それから42年後、米国に海軍基地を提供、ハワイは没落の道をたどることになる。「アロハ・オエ」の作曲家としても有名なリリウオカラニ女王が1893年の革命で退いた。サトウキビ農場を国有化しようと出動した米海軍により退位させられたが、そのときに動員された米軍兵士はわずか150人だった。「兵士150人も追い払えない国」の女王は、世界各国に支援を要請したが、手を差しのべた国はなかった。
ハワイの歴史を振り返り、韓国の将来を考えたのには理由がある。歴史を忘れず将来に向けて前進する国と、過去に縛られ将来を見ることができない国の違いを感じたのだ。記者は、京畿東部連合・主体思想・従北(北朝鮮追従)といった言葉が今も大手を振って登場する韓国のニュースを見ると、その先にどのような結果が待っているのかと思わず身震いする。
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