2012年5月17日木曜日

■ファッションの低迷と学生のミニマルな展示の距離


ファッションの低迷と学生のミニマルな展示の距離
http://www.asahi.com/fashion/column/at/TKY201205170192.html
2012年5月17日12時6分

 EU加盟国の金融・経済不安と足並みをそろえたかのように、ヨーロッパ発のファッションも生彩に欠ける状態が続いている。2012年春夏の欧州各都市での新作コレクションも、クラシックスタイルの焼き直しばかり。新しさを感じさせるような服がないだけではなく、大きなトレンドさえも作りだせないほどの体たらくといってもよいくらいだった。数だけは売れているようだが、H&MやZARAなどのファストファッションや東京のストリート系のリアルクローズにしても、そこに何か格別の新しさがあるようにも見えない。

 こんな停滞ぶりの中でも、パリ・コレではいくつか興味を覚えさせられる内容のものがあった。イッセイ・ミヤケの新作は、薄い反物のような平たい布にスチームアイロンをかけると、それがたちまち様々なボリューム感と表情を備えた服になるという新しい趣向に満ちたものだった。この手法はプリーツ・プリーズやA-POCで重ねてきた工業的な服作りのノウハウの延長線上にある。しかし、「スチーム・ストレッチ」という今回の新作は、そのどちらとも違う新しい服といってよいと思う。

 その理由は、この服が新たに独自の形と装飾性をもったことだろう。プリーツ・プリーズやA-POCが着る人の体形を選びがちだったのに対して、この服は体と一定の距離を置くことで誰でも着やすくなった。またぺプラムやドレープのひだといった装飾的な動きのある布の表情も、そうした着やすさ、選びやすさにつながるだろう。それができるようになったのは、コンピューター工学を応用した織り方の工夫や、日本の最先端のハイテク素材開発とのコラボレーションが背景にある。

 コムデギャルソンの、フェルトの端を縫っただけのシンプルだがそれでいて遊び心のある服も、デザインすること自体への疑問を投げかける意味では興味深い。もう何シーズンも続いているクラシックな形にやたらに凝ったディテール使いや豪華な素材で味付けするだけの「デザイン」に対して、コムデギャルソンのこのシンプルな服は過激で新鮮に映る。

 もう一つ挙げると、ドリス・ヴァン・ノッテンの韓国や日本、中国の伝統衣装や絵画を原寸大で撮影した写真を解体して自由に組み合わせたプリント柄の服も、伝統・クラシックといったものへの向かい方の新しいアイデアを示している。そしてこの服は、クラシックの形をヨーロッパではなくてアジアに求めたことと、それが現代的な感覚からもとても美しく見えることでやはり新鮮さを感じさせる。

 低調さの中でこうしたいくつかの「救い」があったことは確かだ。だからといって今のトップファッションがそれに刺激されて立ち直れるとも思えない。問題は、今のファッションを支えているシステム自体が大きくなり過ぎていて、ビジネスの面でもそれにとらわれ過ぎているのではないだろうか。

 ファッション産業だけではなく、現在の産業システムそのものが効率化、巨大化し過ぎて大きな曲がり角に立っている。そうした中で、もしファッションの本当に「新しいもの」が可能だとすれば、ビジネスや一般的な服の通念とは違うところからの発想が必要なのではないかという気がする。

 東京・神田神保町の空き地の一角で先週末、学生の服飾サークル「fab」の作品展示会が開かれていた。この団体は小石川の東大の博物館でファッションショーを毎年開いているのだが、今回の展示はビルの5坪ほどの谷間で作品もわずか4点というミニマルな展示だった。こうした見せ方のコンセプトも十分煮詰めたものとはいえないし、作品も「服」というレベルから意図的に外したものなのだが、だからこそ逆にこのようなやり方でしか表現できないような新鮮な服への発想があった。

 慶応の大学院で工業デザインを学ぶ学生の作品は、紐を撚り合せてシルエットを作っただけの、いわゆる「一枚の布」の発想を突き抜けた“服”。それは岩や大木にしめ縄を飾るいわば日本のデザインの原点に通じるものだし、本来は自然の一部であるはずの人間の体を拘束してしまう布の意味への改めての問いともいえる。東大教養学部の学生が作ったマジックテープを張って音を強調するシャツも、「聴覚」に注目する発想が新鮮だ。「衣擦れ」は服への繊細な感覚としてはあったが、ファッションデザインとして意識的にアプローチする試みはなかったからだ。

 武蔵野美術大学の学生のライスペーパーを水で造形した、皮膚と一体となって体に溶ける服。同じ大学の学生による、アメリカの美人コンテストでそこを通過できた女性だけが参加できるという体の通過板をスカーフで再現した作品も面白かった。

 彼らの作品と、ファッションとしての服の間にはもちろん大きな距離がある。しかし、本当に新しいものというのは、こうした大きな距離のたわみの間から生まれてくるのではないだろうか?と考えさせる力があったことは確かだった。



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