2011年11月9日水曜日

■高い技術刻む「石の遺跡」


高い技術刻む「石の遺跡」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kagawa/news/20111108-OYT8T01392.htm
(2011年11月9日  読売新聞)

  小豆島の沿岸部には、最大で縦5メートル、横、高さ各1・3メートル、重さは推定で20トンを超える巨大な石がごろごろと点在する。江戸時代初期の大阪城再建で、石垣に使われる石を切り出した名残だ。関連の遺跡は今、壮麗な石垣と合わせ、日本の高度な土木技術を伝える歴史遺産として再評価の動きが進む。その一環として6日に開かれた島内や周辺の島を巡る学習ツアーに参加し、往時の息吹にふれた。(藤本幸大)

 ツアーは、小豆島町が観光資源としてのPRも兼ねて初めて主催。県内外から歴史ファン約70人が参加した。出発点は、小豆島町岩谷(いわがたに)地区にある最大の石の切り出し場で、国の史跡に指定されている「大坂城石垣石切丁場跡」だ。

 郷土史家の石井信雄さん(80)の案内で、海岸から丁場にいたる500メートルの遊歩道をたどる。すぐに白い花こう岩があちこちに転がる光景に出くわした。大阪城築城に間に合わず、積み出されないまま放置された「残念石」。島内に約800個あるという。

 石の間を縫うように進むと、高さ約30メートルもある岩が姿を現した。「大天狗(おおてんぐ)岩」と呼ばれ、こうした岩から石は切り出された。

 大阪市の唐住奈生子さん(28)は、この岩の写真を見たのをきっかけにツアーに参加。「圧倒されて声も出ない」と岩肌を見つめた。

 山道を登り切って一息ついた後、辺りの石をじっくりと眺める。ノミで開けた穴がミシン目のように並ぶものも。石工たちは、割れやすい「石目」に沿って穴を開け、最後に大きなタガネを打ち込み、規格に合わせた石を切り出していた。その工程がよく分かる。

 高松市の渡辺昭さん(67)は「歴史の本を読むだけでは分からない『石工の現場』をイメージできた」と満足そうだ。

 前を歩く人たちが石の表面を指さしながら「あっ、ここ」と叫んだ。二重丸や「丸の中に一」の記号が刻まれている。丁場を開いた大名を示す刻印だ。案内役の石井さんが「石の所有権、さらには石垣の築造場所の分担を示す意味合いがあった」と教えてくれた。

 この丁場を開いたのは、福岡藩主の黒田長政だ。冬の陣で荒廃した大阪城は、徳川幕府が1620年から約8年をかけて再建した。64の大名が普請を命じられ、忠誠心を示そうと各地から競って石を運び、高さ32メートル、総延長12キロにも及ぶ石垣を築き上げた。

 質量ともに最も優れた石を供給したのが小豆島。幕府直轄領だが開発を許され、長政ら7大名が18の丁場を開いたという。

 海岸に戻り、船に乗って島の北側の大坂城残石記念公園に向かう。海岸には、積み出しを待つかのように残念石が列をなしていた。石は、いかだに載せられ、沖合で船に移して大阪に運ばれたという。同様に多くの残念石が残る岡山県瀬戸内市の前島にも寄り、ツアーを終えた。

 石の産地として大阪城再建を支えた小豆島は、加工や運搬の様子も伝える遺物の宝庫。研究者の間では「大阪城と合わせて世界遺産に登録を」との声が高まっている。歴史の魅力を発信する取り組みが、どう発展していくのか楽しみだ。



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