2012年3月5日月曜日

■ここが違う日本と中国(16)―『大』と『小』



ここが違う日本と中国(16)―『大』と『小』
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0305&f=column_0305_006.shtml
【コラム】 2012/03/05(月) 10:15
 
 日本と中国は「一衣帯水」の隣国として千年以上にわたり交流を続けてきた。一方、両者の交流は必ずしもバランスの取れたものではなく、日本による中国のもの(文化や歴史など)の紹介と吸収が圧倒的に多い。

 1980年代以降、中国も日本のことを積極的に紹介し、特に工業製品を大量に取り入れるようになった。それにしても、アンバランスの状態が根本的に改善されたとはいえない。

 日本での中国紹介は実に多様多彩で、なかで筆者が非常に興味を持ったのは「大中国展」である。最初にそれを見たとき、なぜ「中国展」の前に「大」を付けたのかとても不思議に思った。

 それをある知り合いに聞いたら、中国は非常に大きい国だし、物産も溢れるほど多いから、「大」を付けると、より宣伝効果が期待でき、集客力アップにつながる。なるほど、なかなか説得力のある説明だ。

 そんな大国中国に対してコンプレックスを抱いている日本人は少なくない。「日本は小さい国だから」とよく聞かれるのも、これと関係する。一方、大国中国のことに興味を感じ、それが好きな人もかなり多いようだ。

 ところで、「大」があれば、「小」もあるはず。「大中国」といったら、「小日本」ともいえるのか。前者は賛辞であることは間違いないが、後者は明らかに軽蔑の表現にあたる。また、「大日本」というと、かつての「大日本帝国」を連想させてしまいかねない。言葉の使い分けは実に難しい。

 中国という国はまるで「世界一」の代名詞である。多くの「世界一」は中国にある。過去も、現在も、中国や中国人は「世界一」を目指したがる。世界一巨大な国を造り上げるのも中国人の夢である。

 近年、中国の連邦制構想は一部日本人の学者や評論家の間で盛んに議論されており、その見解は普通の人びとにも広く支持されている。中国は国として大きすぎて、まとめるのが大変だから、アメリカやロシアみたいに連邦制にしてはよいではないかという。

 確かに連邦制は一つの考え方としてありうるが、中国には絶対通用しないと筆者は断言したい。それは現政権にとって許しがたいものだけでなく、圧倒的多数の国民からにしてもまったく考えられないことだ。

 現在、中国の第一級地方行政は31の省・自治区・直轄市、それに2つの特別行政区(香港とマカオ)に分かれている。人口はその10分の1弱、国土はその25分の1強相当の日本は、47もの都道府県の地方自治体をもっている。一つの省の人口は1億人にものぼるという状況をみると、中国はなぜ第一級地方行政をもっと小さく分けないのかという疑問を抱いても別に不思議ではない。

 日本の市町村は基礎自治体と位置づけられ、独自の行政権と立法権を持つ。なのに、中国から見た日本の市町村はごく一部を除いて極めて小さい規模しか有しない。甚だ多い人口数千人程度の町村は中国のどの行政に相当するかは時々翻訳・通訳の現場で戸惑いを招く。ある日、テレビ番組で日本の町を中国の「郷・鎮」に訳されたのを見て、思わず「大間違いだ」と声を上げた。日本の町は決して中国に郷・鎮に当たらず、市か県に相当、少なくとも県に訳されるべきだろう。

 今、日本のほとんどの都道府県と市町村が中国の地方政府と姉妹(友好)関係を結んでいる。規模の違いは動かない現実だが、時にはちょっとした不都合も生じる。筆者が九州で暮らしていたとき、大学所在の地元訪中団に加わって中国に行ったことがある。定期的に行う相互表敬訪問のためだった。日本側の人口5万人強の市に対して、中国側の市は105万もの人口を擁する。双方のトップはいずれも市長だが、いろいろなところに力の差があると思われる。非常に印象に残ったのは、中国側の市長は物事についてはっきり意見を述べていたのに対して、日本側の市長は抽象的、一般的なことしか言えなかった。もちろん、これはただ単に行政区画の規模による違いではなく、異なった政治体制などのほうも大きく影響している。

 「大なること」を好むのは、なにも政治や行政に限ったことではない。われわれは日常生活の中でも、そういった国民性を垣間見ることができる。

 中国では1980年代に入ってようやく高速道路が造り始められた。文字通り、ゼロからのスタートだった。そして約20年間の努力で、中国はとうとうアメリカと拮抗するほどの高速道路大国になった。いま中国のどの省・自治区・直轄市へ行こうとしたら、高速道路のネットワークを利用すれば、車で管轄下のほぼ各地域へ行くことができる。もちろん、各省・自治区・直轄市の間も高速道路で結ばれている。

 日本と比較してみると、中国の高速道路にはやはり車線が多く、まっすぐに伸びているといった特徴がある。もう一つの違いは、中国では、高速道路は非常に立派に造られているが、そこを走る車は極端に少ないということだ。それは決して田舎だけの話ではなくて、大都市間を結ぶ重要な幹線道路でも、高速道路の素晴らしさと対照的に、走る車は非常に少ない。筆者は毎年も中国で現地調査を行う際、よく高速道路を利用するが、車の少なさをいつも不思議に思う。渋滞に巻き込まれるようなことは一度もなかった。

 ではなぜこんな状況が生じるのか。中国にも近年モータリゼーションのうねりが押し寄せ始めたとはいえ、総人口および国土面積に比例する車の台数はまだまだ少ないほうだ。特に必要以上に高速道路が造られているため、車の数はより一層少なく見える。また、中国の高速道路はすべて有料であり、料金所はやたら多く、料金も高く設定されている。高速道路を走れば、確かに早く着く。しかし、高い料金に辟易してあえて普通道路を走る車、とりわけ貨物車は決して少なくはない。

 中国では、高速道路料金の高さ、料金所の多さに対する国民の不満は渦巻いている。マスコミもかなり前から批判を繰り広げてきたが、改善の兆しは一向に見えてこない。

 造ろうとしたら、立派に造る。時には必要以上に造ってしまう。これは中国の高速道路の実態だ。

 ところで、そもそも高速道路を必要とするのは、交通の利便性を高めるためである。一方、ここはいくつかの「不思議」が隠されている。

 一つは、なぜ中国ではこれほど立派な高速道路を一気に造ることができたのか。もう一つは、なぜ中国では高速道路は必要以上に造られたのか。

 中国では土地は国有だから、土地の確保は日本ほど難しくないというのが大きな要因である。

 それだけではない。考え方、意識、そして資金や財源も当然深く関わる。

 中国人はもともと「大なること」を好む国民性だから、高速道路の建設にもその国民性が反映されている。また、高速道路の建設は政府と官僚にとって業績づくりの絶好のチャンスになるため、誰だって高いインセンティブを持つ。そしてそれを実現させるのが、独特の財源仕組みである。

 筆者の大学同級生のなかには省交通庁に勤め、局長クラスまで出世した者がいる。彼の説明によれば、高速道路の建設は莫大な資金を必要とし、また莫大なカネが動く。つまり、政府、官僚はもちろん、建設業者、関連企業、金融機関、地域経済などにとって、高速道路の建設はさまざまな利益をもたらす大型プロジェクトである。資金の確保はわりと簡単である。その仕組みは、すでにできた区間の高速道路を担保に金融機関から融資してもらい、新たに借りてきたカネを原資に引き続き高速道路を造るということである。地方政府の後押しにこのような便利な仕組みが加わり、結果としてどこでも、高速道路は一気に伸びていくのだ。

 中国に行って、「大きいなぁー」と感じる建造物は高速道路だけでなく、ほかにも実にたくさんある。駅舎、空港、デパート、オフィスビルなどは大変立派に建てられている。しかし、その中身や機能は必ずしもその広さや大きさに比例しない。外見は大変立派で、中身や機能は疎かにされている、そのようなところは意外と多い。

 例えば、駅とバスターミナル、あるいは空港とバスターミナルを同じところに造るのは日本では常識中の常識である。また、地下鉄のある都市では、地下鉄を空港や駅まで通すことも普通だ。しかし、こういった日本の常識は中国にはまったく通用しない。筆者はいろいろな地域を回ったが、駅とバスターミナルが連結している都市はまだ一つも見たことがない。上海や北京でも、近年、ようやく地下鉄を空港まで伸ばした。だから、施設の規模や立派さにおいて中国のほうが日本を凌駕しているように見えるが、機能、利便性、合理性、使い勝手のよさなどは日本のほうに軍配があがる。中国で交通機関の利用は大変な労力を使い、非常にコストがかかる。そんな状況はいまだに根本的な改善がない。

 一つの例としてホテルについて少し話そう。

 ホテルといえば、泊まる人によって部屋のタイプが違ってくる。日本では、ホテルの部屋は洋室なら一般にシングル、ダブル、ツインといったタイプがある。また、習慣として、一人の場合はシングル、二人ならダブルかツインといった感じ。そして部屋の広さはよほど高級ホテルでない限り、あまりゆとりがない。

 一方、中国のホテルは基本的に星の数が付いており、数が五つなら、最高ランクのホテルになる。ただし、部屋のタイプは星の数にかかわらずどこのホテルにもだいたい同じようなタイプを設けている。筆者の経験では、中国のホテルにはシングルタイプの部屋が非常に少ない。予約またはフロントで「一人部屋をください」といっても、まるで通じないようで、「標間と大床、どっちがいいですか」と聞き返される。

 「標間」は「標準房間」の略称で、日本語に訳せば、標準タイプの部屋といった意味で、日本のホテルのツインにあたる。また、「大床」とは、大きいベッドを意味し、日本のダブルになる。つまり、宿泊客は一人の場合でも、ツインやダブルを提供するのが常識的なことである。

 このようなことだから、困るのは宿泊客。部屋は広いほうがいいに決まっているが、料金は嵩み、もったいない。もしシングルがあれば、宿泊代は安く済む。

 しかし、なぜ中国のホテルにはシングルが少ないのか。筆者は長年この不思議なことを考えてきた。ここではホテル業界関係者の話も参考して原因を説明してみる。

 まず、シングルとなると、部屋自体を小さくし、料金もその分安く設定する必要がある。これは「大なること」を好む中国の国民性にそぐわない。部屋の中の設備や雰囲気はともかくとして、部屋が小さいということは宿泊客のマイナス評価を食らう恐れが非常に大きい。中国人観光客が日本のホテルに対する印象の中、「狭い」というのがもっとも目立つ。

 次に、中国のホテル経営理念が関係する。ダブルとツインの広さはほとんど同じである。つまり、同じ大きさの部屋にダブルにするか、それともツインにするか、ベッドだけ入れ替えれば済む。ところが、もしシングルにするなら、当然部屋の大きさが変わってくるから、なかなか面倒なことである。

 中国人は、施設や建造物について最初段階からすべてを予測して設計、デザインすることは苦手である。まずは大枠や大まかな部分を造っておき、とりあえず使用する。後になって不都合が生じたら、必要に応じて改修する。ホテルもそうである。中国のホテルの造り方はごく少数の高級ホテルを除いて、部屋のデザインは基本的に似たようなものである。そして同じホテルでは、部屋の大きさやデザインはほぼ同じである。これはまさにダブルとツインを基本とし、シングルを設けないことを前提にしている。もしシングルも入れると、このようなことができなくなる。

 一方、時代が激しく移り変わるなかで、中国でも近年、「小なる」ことへの意識が変わり始めた。というよりも、「小なる」ことの価値を見出そうとする人が出始めたというべきだ。

 先日、インターネットでは「小なることは素晴らしい」と謳えるような内容の文章がいくつか見つかった。なかで書いてあることの多くは、「大なること」を崇拝する中国の国民性や社会現実を批判するものである。例えば、大学の拡大路線がもたらす弊害を指摘し、少人数教育のゼミ授業を称賛するなどは、筆者も素直に頷けるものだ。(執筆者:王文亮 金城学院大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)




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