■次世代のスティーブ・ジョブズを育成する
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_427438
2012年 4月 16日 16:09 JST ウォールストリートジャーナル
米国のほとんどの高校や大学は生徒・学生らに発明家になる準備をさせていない。21世紀の世界で成功するには、学生たちは問題を分析・解決し、協力し合い、辛抱し、見込まれるリスクを取り、失敗から学ぶ必要がある。これらのスキルを身につけさせる方法を見つけるために、私は発明家とその親、教師、雇用主ら数十人に話を聞いた。
発明能力を高めるためには実践的で多分野にまたがる授業が大事
スティーブ・ジョブズ氏のような優れた発明家になる若者はかなり少ないが、どんな分野であれ、より革新的になるために必要なスキルを教えることはできる。一握りの高校や大学、大学院ではこうしたスキルを教えている。たとえばカリフォルニア州サンディエゴのハイテク高校、ニューテック高校(16州86校で構成)、マサチューセッツ州のオーリン大学、スタンフォード大学のデザイン研究所、マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボなどだ。これらの学校が取り入れているプログラムの教育法は従来の教育法とは完全に合致しない。
ほとんどの高校や大学の教室では、生徒・学生の失敗はとがめられる。しかし試行や失敗なしに、発明はできない。カリフォルニア州サンノゼのリンブルック高校で教えるアマンダ・アロンゾ氏(32)は私にこう言った。「生徒に教えなければならない最も重要なことは、失敗したときこそ学んでいるということだ」。アロンゾ氏は過去2年間にインテル・サイエンス・プライズ(大学前の学生を対象にした科学コンテスト)の最終選考に残った生徒を2人、また最終選考の前段階まで勝ち進んだ生徒を10人指導した科学教師で、この数は全米のどの公立学校よりも多いという。生徒たちは失敗しないよう守られることによってではなく、失敗から立ち直れることを学ぶことによって、揺るぎない自信を身につけていくのだという。
現在の大学のシステムは専門性を要求し、これを評価する。教授たちは狭い学術分野での研究により職を得る。学生たちは専攻科目を宣言するよう求められる。グーグルの人材配置プログラムディレクターのジュディ・ギルバート氏は、グーグルのような企業で働くために学生たちを準備させる上で、教育者ができる最も重要なことは、専門知識も重要だが、学問の1分野の中だけで問題は解明されないうえ、解決もできないと教えることだ、と指摘する。
スタンフォード大学のデザイン研究所とMITのメディアラボでは、全履修コースが多分野にまたがった内容になっており、問題の探求や新しいビジネス機会といった認識の上に組まれている。オーリン大学では半数の学生が、たとえば「持続可能な発展のためのデザイン」や「数理的生物学」といった多分野にまたがる分野を自ら作って専攻している。
従来の教育方法は受け身で、生徒たちは授業を聞くだけだ。しかし最も革新的な学校では、授業は「実践」で、生徒はクリエーターであり、単なる消費者ではない。生徒は問題を解決し、製品を創造し、また新しい思考を生み出していくなかでスキルと知識を獲得する。たとえばハイテク高校の9年生(日本の中学3年生)はチームで新しいビジネスコンセプトを作り上げなければならない。新製品やサービスを思い描き、ビジネスやマーケティングプランを立案し予算を組む。そして作り上げたビジネスプランを彼らの仕事を評価するビジネスリーダーに提示するのだ。オーリン大学では4年生がチームを組み、大学の提携企業1社から与えられた実際のエンジニアリングに関連する問題に1年間取り組んでいる。
従来の学校では、学生たちは良い成績をとるために学習する。私がこの研究で発見した最も重要なことは、若い発明家は本来やる気があるということだ。発明力を高めるための指導法では、私が呼ぶところの3つのPが大事だ。それはPlay(遊び)、Passion(情熱)、Purpose(目的)だ。遊びは発見に基づく学習であり、それは情熱を見出し、さらに情熱を追い求めることに結びつき、それはやがて深い目的意識につながっていく。
単に1つの科目であるかのように発明について教えることを学校に義務化する、もしくはより多くのチャータースクール(従来の公的教育規制を受けない学校)を支援することは問題の解決にはならない。解決には、学生たちの能力を評価する新しい方法と、教育への新しい投資方法が必要だ。学生たちのスキルの習熟度がわかる「デジタルポートフォリオ」(総合的な学習の評価方法)の導入が必要であるうえ、教師はプロジェクトに基づいた実践的な多分野にまたがる授業の創り方を身につけるプロフェッショナルな能力開発が必要だ。大きな学校区や州はこれらの新しいアプローチを開拓するチャータースクールに似た実験的学校を設立すべきだ。
新しい実験的学校を全米規模で創ることと、教師を訓練することには時間を要する。その間、将来の発明家の親たちが何をするかが重要だ。今日の発明家の親への取材の中で、ある素晴らしいパターンが明らかになった。子どもが良い成績をとることよりも、子どもが本当に好きなことを追求することに価値を置くということだ。また「努力が報われる」ことの重要性も指摘する。子どもが成長するに連れて、リスクを取り、失敗から学ぶよう励ましたという。親から学ぶことは大きい。
[トニー・ワグナー氏は元高校教師で、現在はハーバード大学のテクノロジー・アンド・アントレプレナーシップ・センターのイノベーション・エデュケーション・フェロー研究員。最新の著作は「Creating Innovators:The Making of Young People Who Change the World」]
記者: Tony Wagner
■改めて「ゆとり教育」を問う
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/04/post-425.php
2012年04月16日(月)11時20分 冷泉彰彦 ニューズウィーク
文科省の新しい「脱ゆとり」の教科書を見る機会がありました。例えば今回新版になった中3数学の教科書などでは、全体が妙に分厚くなっています。中身について言えば90年代の本来の中3の内容までは戻っていません。ですが、因数分解のテクニックなどは塾の教科書並みに詳しく、正に思考より訓練を強化すれば「財界も親も文句はないだろう」的な主体性のなさすら感じます。
ちょうどそんな折、『ミスターゆとり教育の反論』というタイトルで、元文科省の寺脇研氏のインタビューが朝日新聞(デジタル版)に出ていました。いい機会ですから、ここで「ゆとり教育」の総括をしておこうと思います。
インタビューの中で寺脇氏は、「ゆとり教育に、私は信念をもっている。その理念の中心は、知識を詰め込む従来の教育を転換し、自ら問題発見をして解決策を探し出し、自ら主題を設定して学べる人間を育てること」だと述べています。
また、2008年の同様のインタビュー(ダイヤモンド・オンライン)では「1970年代までの経済成長期には、製造業を中心とした企業が、均一な質の労働者を必要とした。命じられたままに仕事をこなす労働者を育成するには、詰め込み式で「読み、書き、計算」がきちんとできる人材教育でよかった。しかし、今は違う。第三次産業で必要なのは、「自分の頭で考え、付加価値を創造する力」を持った人材だ。そうした人材は、詰め込み式の教育では育たない。」という言い方をしています。
100%同意します。現在の日本経済の競争力低下は、こうした改革に失敗したためであることは明らかだからです。現在の日本の労働力は、単純作業についてはコスト競争力を失う一方で、高度付加価値の創造で最先端の競争をする能力は足りないからです。私はこの一点において寺脇氏を支持します。
ですが、ゆとり教育が失敗だったということは、議論の余地はないと思います。この点において寺脇氏には責任もあると思います。では、どうして失敗したのか、以下に改めて箇条書き的な整理をしておこうと思います。
(1)付加価値を創造する能力とは何かの定義が曖昧でした。因果関係のストーリー把握、情報収集の質・量・効率、仮説と検証による精度の詰め、抽象概念と具体的な事象との連動・・・そうしたスキルのブレイクダウンを全くせず、したがって教え方のメッソドもないまま実行に移したというのは、息継ぎを教えずに子供をプールに放り込むようなものです。しかも、プールサイドで叫んでいる教師も泳げないわけで、これでは溺死者が続出する、つまり付加価値創造力が教えられなかったのも当然です。プールを埋めて(総合学習を止めて)英語だとか道徳に走る学校も多かったわけですが、要するに先生が誰も泳げなかったからでしょう。
(2)付加価値創造のスキルを教えるためには「詰め込み教育を止めろ」というのが暴論でした。命令に基づく単純な作業の反復と比較して、自ら付加価値を創造するためには、より広範な情報、より高度な基礎スキルが必要なのは明白だからです。寺脇氏は「読み書き計算」ではダメだと言っていましたが、「読み書き計算」をやらなくて良いのではなく「グローバルなコミュニケーション、相手を説得する表現力、微積分を使ったダイナミックな計量」が必要な時代だという認識が欠けていました。昭和の時代にある教育者から「吹奏楽も基礎ができて初めて思い切り吹ける」という比喩を習ったことがありますが、正に基礎のない「騒音の塊」からは付加価値など生まれないのです。
(3)付加価値創造のスキル教育というのは、基礎スキルの完成を待つというだけでなく、世界との対決や和解という概念を経験した思春期以降に加速させるべきなのです。ところが実際は逆でした。思春期以降は旧態依然とした受験勉強に若者を押し込め、思春期前の「コドモ」に「おままごと」としての「総合学習」を与えていたわけです。しかも「どんな価値もオッケー」的な価値相対化という毒も回っており、これではメリハリの利いた抽象概念の操作など教えられるはずもないわけです。
もういいでしょう。批判としてはこれで十分だと思います。問題は、「ゆとり教育」が破綻したからといって、旧態依然とした「記憶と訓練」メソッドに戻して、内容を増やせばいいという「逆改革」の方向性がこれでいいのかということです。
私は「脱ゆとり」ではダメだと思います。抽象概念の操作スキルは教えなくてはなりません。同時に教科内容はもっと加速しなくてはなりません。
全員が対象にならないのであれば、どんどん能力別を入れていくことも含めて、小学校で方程式を入れ、中学から高校の最初で微積分を通過してその先へ行くようにしなくてはダメだし、高度な数学と理科の連携やそもそもサイエンスの学習内容の英語化も必要だと思います。その上で、十代の半ば以降の若者を、正規の教育の中で「科学の限界」あるいは「哲学宗教と科学の接点としての生命倫理」という問題と向きあわせ、真剣な将来設計としての進路を自ら選び取って、国際社会に貢献して行くようにして欲しいのです。
このまま「脱ゆとり」だとして、計算や漢字ドリルばかり大量にやらせる教育が横行し、やがて円安になって労働力の国際競争力が回復すれば、再度日本はモノづくりの拠点として繁栄するのでしょうか? そんな未来像はナンセンスです。資源とエネルギーのない日本は、円安に振れながら大量生産の拠点として中国やインドに対抗できる競争力を回復することはないからです。
真の意味で社会を成熟に向かわせ、高付加価値の創造というエコノミーを育て、そのカネが国内に回ることで内需も高付加価値を志向する、これに加えて輸出産業の地盤沈下も食い止める、これで1億2千万がやっと「食べて行ける」のではないでしょうか?
この間の「ゆとり」は失敗でした。一方で「脱ゆとり」という逆行でもダメなのです。本当の意味で「高度な付加価値を創造する」スキルを教えて行く教育が求められます。
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_427438
2012年 4月 16日 16:09 JST ウォールストリートジャーナル
米国のほとんどの高校や大学は生徒・学生らに発明家になる準備をさせていない。21世紀の世界で成功するには、学生たちは問題を分析・解決し、協力し合い、辛抱し、見込まれるリスクを取り、失敗から学ぶ必要がある。これらのスキルを身につけさせる方法を見つけるために、私は発明家とその親、教師、雇用主ら数十人に話を聞いた。
発明能力を高めるためには実践的で多分野にまたがる授業が大事
スティーブ・ジョブズ氏のような優れた発明家になる若者はかなり少ないが、どんな分野であれ、より革新的になるために必要なスキルを教えることはできる。一握りの高校や大学、大学院ではこうしたスキルを教えている。たとえばカリフォルニア州サンディエゴのハイテク高校、ニューテック高校(16州86校で構成)、マサチューセッツ州のオーリン大学、スタンフォード大学のデザイン研究所、マサチューセッツ工科大学(MIT)のメディアラボなどだ。これらの学校が取り入れているプログラムの教育法は従来の教育法とは完全に合致しない。
ほとんどの高校や大学の教室では、生徒・学生の失敗はとがめられる。しかし試行や失敗なしに、発明はできない。カリフォルニア州サンノゼのリンブルック高校で教えるアマンダ・アロンゾ氏(32)は私にこう言った。「生徒に教えなければならない最も重要なことは、失敗したときこそ学んでいるということだ」。アロンゾ氏は過去2年間にインテル・サイエンス・プライズ(大学前の学生を対象にした科学コンテスト)の最終選考に残った生徒を2人、また最終選考の前段階まで勝ち進んだ生徒を10人指導した科学教師で、この数は全米のどの公立学校よりも多いという。生徒たちは失敗しないよう守られることによってではなく、失敗から立ち直れることを学ぶことによって、揺るぎない自信を身につけていくのだという。
現在の大学のシステムは専門性を要求し、これを評価する。教授たちは狭い学術分野での研究により職を得る。学生たちは専攻科目を宣言するよう求められる。グーグルの人材配置プログラムディレクターのジュディ・ギルバート氏は、グーグルのような企業で働くために学生たちを準備させる上で、教育者ができる最も重要なことは、専門知識も重要だが、学問の1分野の中だけで問題は解明されないうえ、解決もできないと教えることだ、と指摘する。
スタンフォード大学のデザイン研究所とMITのメディアラボでは、全履修コースが多分野にまたがった内容になっており、問題の探求や新しいビジネス機会といった認識の上に組まれている。オーリン大学では半数の学生が、たとえば「持続可能な発展のためのデザイン」や「数理的生物学」といった多分野にまたがる分野を自ら作って専攻している。
従来の教育方法は受け身で、生徒たちは授業を聞くだけだ。しかし最も革新的な学校では、授業は「実践」で、生徒はクリエーターであり、単なる消費者ではない。生徒は問題を解決し、製品を創造し、また新しい思考を生み出していくなかでスキルと知識を獲得する。たとえばハイテク高校の9年生(日本の中学3年生)はチームで新しいビジネスコンセプトを作り上げなければならない。新製品やサービスを思い描き、ビジネスやマーケティングプランを立案し予算を組む。そして作り上げたビジネスプランを彼らの仕事を評価するビジネスリーダーに提示するのだ。オーリン大学では4年生がチームを組み、大学の提携企業1社から与えられた実際のエンジニアリングに関連する問題に1年間取り組んでいる。
従来の学校では、学生たちは良い成績をとるために学習する。私がこの研究で発見した最も重要なことは、若い発明家は本来やる気があるということだ。発明力を高めるための指導法では、私が呼ぶところの3つのPが大事だ。それはPlay(遊び)、Passion(情熱)、Purpose(目的)だ。遊びは発見に基づく学習であり、それは情熱を見出し、さらに情熱を追い求めることに結びつき、それはやがて深い目的意識につながっていく。
単に1つの科目であるかのように発明について教えることを学校に義務化する、もしくはより多くのチャータースクール(従来の公的教育規制を受けない学校)を支援することは問題の解決にはならない。解決には、学生たちの能力を評価する新しい方法と、教育への新しい投資方法が必要だ。学生たちのスキルの習熟度がわかる「デジタルポートフォリオ」(総合的な学習の評価方法)の導入が必要であるうえ、教師はプロジェクトに基づいた実践的な多分野にまたがる授業の創り方を身につけるプロフェッショナルな能力開発が必要だ。大きな学校区や州はこれらの新しいアプローチを開拓するチャータースクールに似た実験的学校を設立すべきだ。
新しい実験的学校を全米規模で創ることと、教師を訓練することには時間を要する。その間、将来の発明家の親たちが何をするかが重要だ。今日の発明家の親への取材の中で、ある素晴らしいパターンが明らかになった。子どもが良い成績をとることよりも、子どもが本当に好きなことを追求することに価値を置くということだ。また「努力が報われる」ことの重要性も指摘する。子どもが成長するに連れて、リスクを取り、失敗から学ぶよう励ましたという。親から学ぶことは大きい。
[トニー・ワグナー氏は元高校教師で、現在はハーバード大学のテクノロジー・アンド・アントレプレナーシップ・センターのイノベーション・エデュケーション・フェロー研究員。最新の著作は「Creating Innovators:The Making of Young People Who Change the World」]
記者: Tony Wagner
■改めて「ゆとり教育」を問う
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/04/post-425.php
2012年04月16日(月)11時20分 冷泉彰彦 ニューズウィーク
文科省の新しい「脱ゆとり」の教科書を見る機会がありました。例えば今回新版になった中3数学の教科書などでは、全体が妙に分厚くなっています。中身について言えば90年代の本来の中3の内容までは戻っていません。ですが、因数分解のテクニックなどは塾の教科書並みに詳しく、正に思考より訓練を強化すれば「財界も親も文句はないだろう」的な主体性のなさすら感じます。
ちょうどそんな折、『ミスターゆとり教育の反論』というタイトルで、元文科省の寺脇研氏のインタビューが朝日新聞(デジタル版)に出ていました。いい機会ですから、ここで「ゆとり教育」の総括をしておこうと思います。
インタビューの中で寺脇氏は、「ゆとり教育に、私は信念をもっている。その理念の中心は、知識を詰め込む従来の教育を転換し、自ら問題発見をして解決策を探し出し、自ら主題を設定して学べる人間を育てること」だと述べています。
また、2008年の同様のインタビュー(ダイヤモンド・オンライン)では「1970年代までの経済成長期には、製造業を中心とした企業が、均一な質の労働者を必要とした。命じられたままに仕事をこなす労働者を育成するには、詰め込み式で「読み、書き、計算」がきちんとできる人材教育でよかった。しかし、今は違う。第三次産業で必要なのは、「自分の頭で考え、付加価値を創造する力」を持った人材だ。そうした人材は、詰め込み式の教育では育たない。」という言い方をしています。
100%同意します。現在の日本経済の競争力低下は、こうした改革に失敗したためであることは明らかだからです。現在の日本の労働力は、単純作業についてはコスト競争力を失う一方で、高度付加価値の創造で最先端の競争をする能力は足りないからです。私はこの一点において寺脇氏を支持します。
ですが、ゆとり教育が失敗だったということは、議論の余地はないと思います。この点において寺脇氏には責任もあると思います。では、どうして失敗したのか、以下に改めて箇条書き的な整理をしておこうと思います。
(1)付加価値を創造する能力とは何かの定義が曖昧でした。因果関係のストーリー把握、情報収集の質・量・効率、仮説と検証による精度の詰め、抽象概念と具体的な事象との連動・・・そうしたスキルのブレイクダウンを全くせず、したがって教え方のメッソドもないまま実行に移したというのは、息継ぎを教えずに子供をプールに放り込むようなものです。しかも、プールサイドで叫んでいる教師も泳げないわけで、これでは溺死者が続出する、つまり付加価値創造力が教えられなかったのも当然です。プールを埋めて(総合学習を止めて)英語だとか道徳に走る学校も多かったわけですが、要するに先生が誰も泳げなかったからでしょう。
(2)付加価値創造のスキルを教えるためには「詰め込み教育を止めろ」というのが暴論でした。命令に基づく単純な作業の反復と比較して、自ら付加価値を創造するためには、より広範な情報、より高度な基礎スキルが必要なのは明白だからです。寺脇氏は「読み書き計算」ではダメだと言っていましたが、「読み書き計算」をやらなくて良いのではなく「グローバルなコミュニケーション、相手を説得する表現力、微積分を使ったダイナミックな計量」が必要な時代だという認識が欠けていました。昭和の時代にある教育者から「吹奏楽も基礎ができて初めて思い切り吹ける」という比喩を習ったことがありますが、正に基礎のない「騒音の塊」からは付加価値など生まれないのです。
(3)付加価値創造のスキル教育というのは、基礎スキルの完成を待つというだけでなく、世界との対決や和解という概念を経験した思春期以降に加速させるべきなのです。ところが実際は逆でした。思春期以降は旧態依然とした受験勉強に若者を押し込め、思春期前の「コドモ」に「おままごと」としての「総合学習」を与えていたわけです。しかも「どんな価値もオッケー」的な価値相対化という毒も回っており、これではメリハリの利いた抽象概念の操作など教えられるはずもないわけです。
もういいでしょう。批判としてはこれで十分だと思います。問題は、「ゆとり教育」が破綻したからといって、旧態依然とした「記憶と訓練」メソッドに戻して、内容を増やせばいいという「逆改革」の方向性がこれでいいのかということです。
私は「脱ゆとり」ではダメだと思います。抽象概念の操作スキルは教えなくてはなりません。同時に教科内容はもっと加速しなくてはなりません。
全員が対象にならないのであれば、どんどん能力別を入れていくことも含めて、小学校で方程式を入れ、中学から高校の最初で微積分を通過してその先へ行くようにしなくてはダメだし、高度な数学と理科の連携やそもそもサイエンスの学習内容の英語化も必要だと思います。その上で、十代の半ば以降の若者を、正規の教育の中で「科学の限界」あるいは「哲学宗教と科学の接点としての生命倫理」という問題と向きあわせ、真剣な将来設計としての進路を自ら選び取って、国際社会に貢献して行くようにして欲しいのです。
このまま「脱ゆとり」だとして、計算や漢字ドリルばかり大量にやらせる教育が横行し、やがて円安になって労働力の国際競争力が回復すれば、再度日本はモノづくりの拠点として繁栄するのでしょうか? そんな未来像はナンセンスです。資源とエネルギーのない日本は、円安に振れながら大量生産の拠点として中国やインドに対抗できる競争力を回復することはないからです。
真の意味で社会を成熟に向かわせ、高付加価値の創造というエコノミーを育て、そのカネが国内に回ることで内需も高付加価値を志向する、これに加えて輸出産業の地盤沈下も食い止める、これで1億2千万がやっと「食べて行ける」のではないでしょうか?
この間の「ゆとり」は失敗でした。一方で「脱ゆとり」という逆行でもダメなのです。本当の意味で「高度な付加価値を創造する」スキルを教えて行く教育が求められます。
0 件のコメント:
コメントを投稿