2011年11月18日金曜日

■結婚のかたち旅に出ない若者よ、明治の娘たちに負けているぞ


結婚のかたち 旅に出ない若者よ、明治の娘たちに負けているぞ
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/28953
2011.11.17(木)

海外留学する日本人が減っていると言われて久しい。同様に、若者が海外に旅に出かけることも少なくなっているという。

 <文科省によると、海外留学する日本人は2004年の8万2945人をピークに減少に転じ、08年は6万6833人で前年比11%減。高校生についても、08年は06年比18%減の3190人にとどまった。このため文科省は、高校生の留学経費支援や大学生の奨学金枠の拡大などを計画。短期留学(3カ月以上1年未満)する大学生を今年度(760人)の約4倍の3000人、高校生も今年度(50人)の40倍に当たる2000人に増やせるよう、来年度予算の概算要求に関係経費を盛り込んだ。

 (中略)

 リクルートが今春高校卒業の大学進学者約7500人から回答を得た調査によると、「留学意向なし」(40%)が「留学意向あり」(33%)を上回った。

 「留学意向なし」の理由(複数回答)は「費用が高いから」(48%)が最多で、次いで「英語(外国語)が苦手だから」(44%)だった。

 同社が発行する高等教育専門誌「カレッジマネジメント」の小林浩編集長は「これからは語学力を磨き、異文化に対応できる力が重要。早い時期から海外で経験を積むきっかけをつくるべきだ」と指摘している。>

 (毎日新聞、2011年11月7日、夕刊)

 同記事中では、高校卒業後に米国のジョージタウン大学に留学した経験を持つ中川正春文科相からの呼びかけとして、「若者は海外に飛躍して、元気な日本をつくってほしい」との言葉が挙げられていた。

 池上彰氏や尾木直樹氏などの識者も、学生の海外留学を奨励しているし、私も外国に行かないよりは行った方がよかろうと思っている。

 ただし、昨今の学生が海外留学やバックパッカー的な旅を望まないのは、「費用が高いから」や「英語が苦手だから」という理由だけに止まらない気もしているので、以下そう考える根拠を述べてみたい。

 その前に、まずは私自身の留学経験を語っておくと、私はGASEI南米研修基金による奨学金を得て、1987年4月から88年3月までの1年間中南米各国に滞在した。

 GASEI南米研修基金とは、アルゼンチンのブエノスアイレスに在住していた日本人実業家・森山秀雄氏によって創設された、個人的な奨学金である。

 「20歳から25歳までの男子2名に対して、南米までの往復旅券ならびに生活費として月額400ドルを1年間にわたって支給する。南アメリカのどこでなにをするかは自由、帰国後、簡単なレポートを提出すること」

 大学の掲示板に貼り出された募集要項を見つけるなり、「これは、おれのための奨学金だ!」と21歳の私は確信した。

 選考方法は、「なぜ南米に行きたいか」を記した小論文による1次審査。さらに2次審査の面接および討論会によって、2名の研修生が決定されるとのことだった。

 後日知ったところによると、1次審査には300名を超える応募があったという。2次審査には20名が残り、面接と討論会を経て、私は「南米での自由な1年間」を手に入れた。

 「南米での自由な1年間」がいかなるものだったかについて語りだすと、それこそ1年では足りないかもしれない。事実、作家となって10年が過ぎてもなお、私は南米での経験をまとまった形では描けていない。

 『極東アングラ正伝』として「小説推理」に連載されて、同名の単行本として刊行された小説の中で(文庫時に「虹を追いかける男」と改題)南米体験に触れてはいるが、ごくごく一部でしかない。
 「南米での自由な1年間」という、夢のような、悪夢のような時間そのものをいつか描けたらと思うのだが、それはまだ先のことになりそうである。

 おおまかな移動経路だけでも記しておけば、私はまずリオデジャネイロに到着した。そのまま約2月半をかけて、アマゾンから大西洋岸までのブラジルを1周した。リオデジャネイロに戻った後は、陸路でパラグアイからアルゼンチン、そしてアンデス山脈を越えてチリに入った。チリのサンチアゴから北上を始めて、ペールとボリビアのアンデス山中で半年を過ごした。1987年当時は、のちに日本大使館を占拠する左翼ゲリラの活動が活発で、街中で車に仕掛けられた爆弾が頻繁に炸裂していた。

 アンデス山中から抜け出したあとは、ガラパゴス諸島で束の間のリゾート気分を満喫して、陸伝いにパナマからメキシコまで上がり、空路で日本に帰国した。

 といった次第で、これではちっとも留学についての説明になっていない。ただ、1つだけ述べておけば、私は南米から帰って2年後に屠畜場の門をくぐった。そして、その後の10年間を牛の皮を剥いて過ごすのだが、南米に行っていなければそうした選択はしていなかったと思う。


 異文化に触れるとは、恐ろしいことである。

 文科大臣やリクルート社の編集長が学生たちに留学を勧めるのは、将来、企業人として外国人に伍して働くための気構えを涵養してほしいという期待からなのだろう。それはそれで一理あるが、異文化との接触によって被った衝撃をこなすのに長い月日を要する場合もあることは、どうか頭の片隅に置いておいてもらいたいと思う。

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 例によって話が逸れてしまったが、民俗学者の宮本常一に「出稼ぎと旅」という一文がある。これは「婦人百科」という雑誌に「生活の記録」として連載されたうちの1つで、以前にも紹介した『女の民俗誌』(岩波現代文庫)に収録されている。

 <嫁入りまえに旅をしておくことが大切だという考え方は、西日本の村々には早くからあったのではないかと思う。嫁になり、主婦になると、もう家を出て旅をすることも少なくなる。そこで若い間にできるだけあるいて広い世間を見ておけば、嫁にいってからいろいろ役に立つだろうというのが、娘たちの願いであったのではなかっただろうか。

 (中略)

 女が四国八十八ヵ所巡拝を願い出ているものがいくつもある。男も願い出ているが女の方が多い。たいてい3人か5人の組であるが、なかには2人くらいの組もある。八十八ヵ所巡りが女の修養の1つではなかったかと思われる。この仲間は、2カ月か3カ月するとたいてい帰ってくる。しかし2人くらいの組のなかには帰って来ていないものがある。途中病気で死んだとも思えない。あるいは旅さきで嫁いだものもあるのではないかと思う。>

 <伊勢参宮なども、女が仲間をつくってまいることが少なくなかった。これも愛知県三河山中できいた話だが、嫁入りまえの若い娘たちが何かの折りにしめしあわせて伊勢参宮を計画する。親には内緒で、菅笠や着物や杖などを準備し、男を一人たのむ。途中で危難にあわぬための用心棒のようなもので、この人を宰領といった。そして春さきの夕方に突然村を出てゆく。しめしあわせた一定の場所に集まって、そこから一緒にあるいてゆく。

 村の方では娘がいなくなったので一時はさわぐが、いなくなったものが大ぜいなのですぐ伊勢参宮を気づく。それに宰領が誰とわかっておればあとは下向をまつのみである。このようにして一行は伊勢までゆく。三河からであると一週間か10日あれば帰って来る。そういう旅でも若い娘たちの血をわかしたものであった。>

 <旅は娘の身だしなみであったという。元気でありさえすれば、そしてよい仲間が居りさえすれば旅に出たものだし、親もそれを許したという。>

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 これは明治初年から20年頃の習俗だということだが、村の娘というごく普通の人々がかくも意欲的に旅に出ていたことに驚かされる。

 我々は、前近代の村落=閉鎖的と思いがちである。ところが実際には、今の若い女性たちが海外旅行を楽しむのと同じかそれ以上に、当時の女性たちも旅を楽しんでいたのである。

 話を冒頭に戻せば、海外留学や旅に出かける若者が減っているのは、外国に対する関心が減退しているからではない。そうではなくて、留学をした場合に、かの地で身につけた経験を持ち帰るべき場所がないと若者たちが感じているからではないだろうか。

 宮本常一によって描かれた女性たちには、旅のあとで戻るべき故郷や嫁ぎ先といった確固たる居場所が用意されていた。だからこそ、彼女たちは結婚して身動きがとれなくなる前に旅によって見聞を広げようとしたのだ。

 女性たちが旅によって知識を広げて、一人前の大人になることは、村落共同体を維持・発展させるために是が否でも必要な行為であった。だからといって村の顔役たちが積極的に旅を勧めるのではなく、若い女性たちが家出同然にこっそり出かけるところが、いかにも微笑ましい。

 翻って、現在の政治家や就職斡旋企業は、海外留学によって、若者に自分たちが望む範囲の経験をしてもらいたいとしか考えていないのだろう。一方、若者たちの方では、そうした意図はとうにお見通しなのだ。留学によって、なまじ欧米人並みの男女平等観や権利意識を身につけようものなら、前近代の村落よりも遥かに閉鎖的な日本企業では邪魔者扱いしかされないことくらい、若者たちはとっくに分かっているのである。

 だからといって、留学や旅を諦めていいかといえば、やはりそうは言えないと私は思っている。



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